第2話 友達っていつまでいましたか

 今日も、ドア付近がやたらと混んでいる朝の電車に乗る。あとひと月もすれば梅雨が来る。梅雨の前に、夏の練習をしているのだろうか。異常に暑い。会社から衣替えの指示がないせいで、通勤中はネクタイとジャケットを身に付けなければならない。

(あと少し……)

 乗客をできるだけ押さないように、忍者のように体をくねらせて、座席の前の吊革を取る。静かにため息を吐いて、スマートフォンを胸ポケットから取り出した。

 ソーシャルネットワークサービスのアイコンをタップして、最新の投稿一覧を眺める。

 インターネットで友達ができることは知っている。匿名で話し相手ができるネットワークがあることも知っている。だが、春木にとってそれは避けたい手段だ。

(フォロワーって、何をすればできるんだろう……)

 三年ほど前に試しに作ったアカウントは、いくつかのニュースアカウントをフォローして終わっている。ニュースに反応することはない。読むだけだ。

ニュースにコメントを残して、知らない人間から変に絡まれたくない。例え、同意だとしても、素性の知れない人間と気を使いながらニュースというセンシティブな話をトピックにして話したくない。

 春木は、両手で足りる程度のニュースサイトに加えて、個人でマンガを描いて毎日一ページだけアップロードしている作家を何人かフォローしている。読んでいる瞬間だけ、何かを忘れることができる。

(継続は力なりか……)

 フォローしている作家のマンガが、とうとう書籍化されるらしい。通し番号を見ると、二百五十話目だった。

 これからは、書籍化作業のために更新が不定期になることが添えられている。

 作者が何歳かは分からない。それでも、成功に向けて歩み出した人間が、確実に一人この世に存在する。

(いいな……)

 嬉しさと悲しさをはらんだ感情が、胸の少し下で波打っている。こんな時、素直に喜びたい。

 しかし、できなくなってしまった。花粉を防ぐためのマスクをしていてよかった。自分は今どんな表情をしているだろうか。きっと、泣きそうな顔をしているはずだ。


「春木さん。社員証の写真撮影ですが、水曜日は営業部から五名しか参加できないのでスケジュールを変更してください」

 営業部の庶務を担う女性は今日も元気だ。金曜日の予定を火曜日に変えただけでは、満足できなかったらしい。

「五名の方に、別の曜日に移っていただくことはできませんか」

 会社には、営業部と総務部以外にもたくさんの部署がある。彼女も、社会人ならば知っているはずだ。

「いえ。営業部はお客様最優先ですから。難しいなら、営業部は他の部署の撮影日に参加しても良いというメールを送ってください」

 彼女は、管轄部署からのお墨付きを、やたらと欲するように思う。部内で上手に調整してはくれないものだろうか。また、胸の少し下で波が立つ。

「水曜日、木曜日、次の週の火曜日が営業部に割り当てられた日です。事前に営業部の希望日程もいただいています。これ以上の変更は、他の部署との調整が必要になります」

「それは、春木さんの仕事でしょう?」

 なんとなく、噛みあわない気がして口をつぐむ。他の人間なら、もう少し彼女とうまくやれるのだろうか。対立の火種に少しずつ空気が送り込まれている気がする。

「では、適当に希望日程をだされたのですか?」

 一応、社会人歴は十年を超えている。こんな時でも、顔に笑顔を張り付けることができる。しかし、マスクのせいでほとんど見えていないだろう。

「そういうわけではないですが、営業部は日々お客様のニーズに応えるために流動的なスケジュールで活動していますから」

 あなたは知らないでしょうけれども。という風に言葉が続いているように感じるのは、気のせいだろうか。

「では、五名の方のお名前と社員番号をメールで送ってください。その方々のみ別部署の任意の日付に参加できるようにメールで指示を出します」

 営業部は大所帯だ。部員は百人を超えている。その人数が好きな曜日に勝手に撮影に参加すると、カメラマンとの契約時間内に撮影が終わらなくなる可能性が高い。

 何より、彼女の『仕事をしている感』のために他部署と交渉するのが腹立たしい。いや、面倒くさい。腹立たしいと感じたときは、まだ情熱があったときだ。

「……わかりました」

 あからさまに不満そうに、彼女は靴音を立てて春木から離れた。対立は嫌いだ。消耗するだけだ。

「春木」

 今朝からモニターとにらめっこしていた上司が、珍しく声をかけてくる。

「はい」

 立ち上がり、上司の元に向かう。ちらりと見えたモニターには、民法の改正前後の要点を記載した法律事務所のページが表示されていた。

「あれでいい。言うことを聞きすぎなくていい。だけど、喧嘩はしないでくれな」

 聞こえているかどうか分からないほどの声量で返事をした。


(代り映えしないな……)

 書店の売れ筋ランキングは、変動していなかった。目まぐるしく変わるソーシャルネットワークサービスの画面より、この順位を表した棚の方が好きだ。先週まで売れていたものは少し下位に、新しいものは上位に、予想ができるような順番で並ぶ。

(誰だ?)

 新刊の置かれた平台に、四列も同じ表紙が並んでいる。派手な髪の毛の青年だ。まだあどけなさもある。

『登録者数累計五百万人! あの人気クリエイターの素顔!』

 銀色の帯に書かれたアオリ文を読んで、その青年が動画投稿サイトの人気グループのリーダーだと知る。五百万人に顔が知れ渡るというのは、どんな気分なんだろうか。彼は、友達が多いのだろうか。その内の何人に、心を開いているのだろうか。

(あれ……?)

 急に、目の前が歪んだ。

 歪みは一瞬で収まった。浅く、早く何度か呼吸をして、文庫の棚を歩く。今日は棚の文字を読むことができない。タイトルも、作者も目に入らない。

 雑誌のコーナーで、表紙に躍る文字が忙しない。急き立てるような、手に取られるために飾った表紙たちが毒々しい。

 楽園にいたはずだった。気付けば、資格書の棚の前にしゃがみ込んでいた。

(なんか、苦しい……)

 締め付けられるというよりは、個体が液体となって流れだすのを止めていると言った方が正しいかもしれない。本棚に手をついて、瞬きを何度もする。

 十日で合格。この一冊で合格。スキマ時間で合格。

 冬の体育だった。マラソンの授業中に、息が上がって走れなくなった。歩いていると、教師からは走れと檄が飛んだ。急に止まると逆に苦しくなるから、ゆっくり歩けと言われた。

(止まる? 歩く? ゆっくり?)

 再び文字が歪み始めた。

「あの、大丈夫ですか」

 大きく肩が跳ねた。人影があることに気付けなかった。邪魔をしたと思い、カバンを引きずりながらずりずりと棚から離れる。

「大丈夫ですか」

 ようやく、心配されていることに気付いた。何度もうなずき、返事をしようとして口の中が乾ききっていることに気付いた。

「ひ、ひん、ひんけつ……で」

 貧血になったことはこれまで一度もないが、嘘は口から自然に出てきた。使ったことのない言葉でも、ドラマや映画で見ていれば何とかなるのだと、余計なことを考えた。

「店員さんを呼びましょうか?」

 本当に、春木の顔色は悪かった。目の周りは白く、頬は黄色く、全体に土気色のフィルターがかかっていた。

「いえ……、いえ、ほんとうに、すみません。ごめんなさい。すみません」

 覚束ない足取りで、資格コーナーを離れた。今日は、この店は楽園ではなかった。それだけだ。それでも、優しい人に会った。楽園でない場所でも、優しい人はいるらしい。

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