この行動は何歳から気持ち悪くなりますか

里中翠鳥

第1話 むなしい僕

 僕はもう、宇宙飛行士にはなれない。医者にもなれない。大企業に転職して、花形部署でエースとして活躍することもできない。

 平凡な会社で、辛うじて正社員ではあるが、社内で仲の良い人もいない。

 少々語弊がある。仕事をするうえで支障になるような関係の人間はほぼいない。その代わりに、飲み会で本音を話したり、休日に遊んだりする同僚がいない。

 『友達』も『恋人』もいない。


「春木さん、営業部の社員証写真の撮影日ですが、金曜日を避けてもらえませんか?」

 春木聡太が一般企業の総務課で働き始めて七年になる。新卒で入社して十一年目だ。最初の三年間は都内の営業所の業務課で雑用係として働いていた。

 営業部の庶務業務を担当する女性は、派遣社員で春木よりいくつか年上のはずだ。いつも決定事項に少しだけ訂正を依頼してきて、受け入れられるまで、なぜその微細な変更が必要なのかとくとくと話す。

 受け入れた方が早い。春木は頷いてパソコンのモニターに予定表を表示した。

「水曜日と木曜日は変更せずに、金曜日の予定を次の週の火曜日に動かしましょうか」

 正直、営業部が何曜日に忙しいのか分からない。顧客次第と言われればそれまでなので、適当に予備日として仮抑えしてある日を提示した。

「ええ、火曜日なら。まあ」

 思い通りに事が運んだことが嬉しいのか、彼女は細かく何度か頷いてモニターから目を離した。

「それでは、私と課長に決定事項として変更メールをください」

「はい、わかりました」

 そちらで勝手にやってほしいというのが本音だ。しかし、彼女は「自分の手柄によって変えた」という実績が欲しいらしい。ここでもめてもいいことはひとつもない。メールを開いて、送信履歴から社内へ送った『社員証の写真更新に伴う写真撮影のお知らせ』というタイトルのメールを引用して、営業部へ送信した。

 なんだかぐったりしてしまった。波風を立てないようにしたせいで、妙に気を使ってしまった。


「お手伝いすることがなければ、帰宅しようと思いますが……」

 お誕生日席に座る上司にできるだけ爽やかに確認すると、目で返事が返された。帰っても良いらしい。上司は画面に集中していて、春木の話は聞いていなかった。それでも、帰っていいとお墨付きがもらえたので帰ることにする。

 終業のチャイムが鳴ってから数分間、机周りを片付け、コーヒーを入れていたマグカップを給湯室で洗う。

黄色いスポンジを手に取ると、昨日交換したはずのスポンジにワカメが貼りついていた。昼にマグカップで味噌汁を飲む人間が、貼りつけたままで放置したのだろう。ワカメを指でつまんで燃えるごみに捨てた。

「会社は全部が共用部でしょう……」

 澱のようなものが、胸の奥にたまり始めたのはいつからだろうか。

(汚いなあ……)

 ワカメを取った手を洗おうとしたが、液体せっけんのポンプを押しても手ごたえがない。ポンプからは宙にぷかぷかと浮かぶ泡ばかりが出る。

「石鹸、明日買わなきゃ」

 会社で契約している事務用品や日用品の購入サイトは、昼前に注文すれば当日中に配達される。今注文しても、明日注文しても変わらない。席に戻り、ふせんに『せっけん』とメモしてディスプレの端に張り付けた。

「お先に失礼します」

 声での返事はない。一瞬視線を上げた上司が、先ほどと同じように視線で承認をした。


 むなしいと思うようになったのは、いつからだろうか。新入社員が明らかに自分より若く、別の年代の人間だと思うようになったのはいつからだっただろうか。

 大学生が、「高校生は若い」などと言うのとはわけが違う。彼らは、成長している。そして、自分は老い始めている。

 この感情を誰かに話しても「まだ若い」、「三十代が何を…」と、まともに取り合ってもらえないことは分かっている。

 友達がいない。恋人がいない。季節の変化の度に、胸が締め付けられる。

 定時に帰っても、やることがない。しかし、会社で時間を使いたくない。そんな時は本屋に来る。会社の最寄駅から、ターミナル駅に出て、駅直結の商業ビルに入る。上階にあるワンフロアを占める大型書店で新刊の平台を見る。そして、週間の売上ランキングの棚を見てから、文庫、雑誌、資格の棚の順に巡る。

 そうしていると、心の中にある虚しさが少しだけマシになる気がする。

まだ、読む本がたくさんある。いつでも買えるものがたくさんある。資格の棚を見れば、勉強すればなんとかなると安心できる。

(帰ろう……)

 澱は消えない。それでも、この楽園で澱は少しだけ薄まる。この虚しさの正体を春木は既に知っている。

そして、解消する方法も知っている。しかし、春木にその手段を講じる手立てがない。

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