あかね書店に乾杯
三月も末になると、年度末で忙しい中であっても会社では送別会が行われる。
退職者や異動者が必ずいるからだ。
今年は、私によくおやつをくれたおじさんが定年退職をする。
出張に行くといつも、私の好きな羊羹やプリンやチョコを買ってきてくれる。
なぜ、いい社会人なのにおやつなのか?
それは、私に仕事以外の雑用的な仕事を頼むことの負い目なのかもしれない。
お茶くみにコピー取りは当たり前で、パソコンソフトの使い方はしょっちゅう聞かれるし、急ぎのデータがあれば入力が速い私に依頼が来る。
今は、契約書に書いていない仕事は拒否してもいいそうなのだが、派遣社員で色々な会社を渡り歩いている私は、そういった雑用を頼まれても気にはならない。
自分の仕事に余裕がある時ならば、勤務時間中に頼まれることは、お茶くみだろうがコピー取りだろうが、契約書に書いてない仕事であっても自分の仕事だと思っている。
だからおやつをもらわなくても何でもやるのだが、おやつのおじさんは『いつもありがとうね』とおやつをくれる。
こういう心遣いは、たとえ雑用仕事であっても認めてもらえているようでうれしい。
いつも、私がパソコンソフトの使い方を教えてあげていたおじさんの送別会の会場。
その居酒屋は、私の学生時代の馴染みの本屋さんがあった場所だった。
*
経済不況のあおりもあり、中心市街地の過疎化は年々進み、駅前の商店街だと言うのに中学高校と買い物をしていたお店は、私が社会人になる前にことごとくつぶれてしまった。
本屋も画材屋も雑貨屋も映画館も、少ないお小遣いを費やした思い出の店はもうない。
今日の送別会の会場である居酒屋も、もとは私が中学高校の時によく本を買ったり、友達との待ち合わせに使っていた『あかね書店』があった場所だ。
携帯もスマートフォンもない学生時代の待ち合わせは、時間と場所の指定だけ。
かといって、私の住む小さな田舎町にはランドマークになるほどの立派な建物はない。
駅ならば、とも思って試しに駅で待ち合わせをしてみたこともあるが改札なのか看板前なのかよく決めなかったために、お互いを探してうろうろしてしまったことがある。
その教訓から、私たちが待ち合わせをするときは決まって、あかね書店を利用していた。
あかね書店は、2階建てのこぢんまりした本屋さんだ。
一階の入り口付近に、漫画雑誌などがあり、奥へ進むと一般書が並んでいる。
2階には、漫画本とアニメグッズや画材があった。
不思議なもので、カラオケに行く前でも、ショッピングや映画に行くときでさえ、なぜかこの本屋でみんなで待ち合わせをした。
『あかね書店で待ち合わせ』は、私たちの合言葉になっていた。
待ち合わせに早く来てしまっても、誰かが遅れてしまっても、本屋ならいくらでも待てる。そういう友達ばかりだった。
コーヒーを飲みながら、ひとりで喫茶店で待っていられるほど大人ではなかった。
私たちには、大好きな漫画や本に囲まれた、馴染みのある本屋が似合っていた。
大体は、少女漫画の棚の前か画材コーナーで待ち合わせの相手を捕捉できた。
そうして、カラオケや映画に行く前に漫画本や画材で両手が埋まってしまうこともしばしばあった。
友達との楽しい休日の始まりは、いつもあかね書店からだった。
*
その頃の友達は、もう地元にはいない。
県外の大学に行き、そのまま就職をした子がほとんどだ。
社会人になったり、結婚したりで戻って来た子の話は聞かない。
私だけが地元に置いてけぼりだ。
ずっと、この土地に根を生やして生きているのが、小学校の時に転校してやってきた私なのは何かの縁なのだろう。
送別会の前に、昔のことを鮮明に思い出して私は苦笑いした。
*
暖簾をくぐり居酒屋へ入るとざわざわとした
お酒と人いきれがまざったいかにも居酒屋の空気だった。
そこには、まったく本屋の面影はなかった。
「ここ、前は本屋さんだったの知ってます?」
私は、おやつのおじさんに聞いてみた。
「そうだっけ? メガネ屋じゃなかった??」
おじさんも昔のことすぎて記憶にないようだ。
「まあ、昔のことですしね。今日は送別会ですから、いっぱいお注ぎしますよ」
私はそうにっこり笑って座敷に促した。
ノスタルジックに浸っている場合ではない。
送別会の会費分は、しっかり元をとって飲まなければ!
あかね書店は、居酒屋になってしまったがあの頃の記憶はまだ胸に残っていた。
私にも、確かに大好きな本や漫画を語り合う友達がいたのだ。
大人になり誰も残っていないとしても、その頃の喜びが今の私を作っている。
たくさんの本とたくさんの楽しい待ち合わせをくれたあかね書店。
今日は、今はないあかね書店にもグラスを掲げよう。
お礼を言えないままに閉店してしまった本屋へ、感謝の気持ちを込めて。
お わ り
(KAC2023の再収録です)
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