黒い夏

@ino-ino

第1話 告白

 太陽から降り注ぐ熱線を浴びて、草木が健気に背を伸ばしている。短い生涯を叫ぶ蝉たちの声に眉をひそめながら、啓太は陽炎の揺らめくアスファルトを歩いていた。額から滴る汗を乱暴に拭って、水筒の冷えた麦茶で喉を潤した。近くの小学校のグラウンドからは、野球少年達の元気な声が聞こえてくる。一生懸命にバットを振る姿を横目に、新品のスマートフォンを取り出した。午前八時四十五分。液晶に映った文字を確認して、少しだけ歩を早めた。今日から啓太にとって高校生活初の夏休みが始まる。退屈な授業から解放され、思い切り休みを満喫してやろうと意気込んでいた矢先、先生から呼び出しをくらった。原因は学期末のテストにて、数学と英語のニ教科で赤点をとったことだ。その二つが絶望的に苦手な啓太は、テストの度に目に余る点数を重ねていた。そのせいで夏休みの前半が補習で潰れることになったのだ。

空を仰ぐ蝉達を避け、歩道橋を渡ろうとしたところで突然背後から声をかけられた。

「おーい!啓太!」

手をブンブン振りながら、笑顔で駆け寄ってきたのは啓太の同級生であるちはやだ。艶のあるショートヘアに華奢な身体と童顔。そして中性的な声と長いまつ毛を伸ばした容姿は、一部の生徒の間で女子なのではないかという噂が立つほどに女性的だ。まんまるの瞳を輝かせ、両手で抱きついてくる姿はさながら尻尾を振る子犬のようだった。

「なんだよ。暑苦しいな」

しがみついてくるちはやを振り払いながら素っ気なく返した。実際、炎天下の中男に密着されては暑苦しくて堪らない。

「めんご!てか啓太も補習?」

「あぁ、まぁな」

補習という響きに眉をひそめ、頭の後ろを掻きながらバツが悪そうに返す。

「マジか!仲間じゃん!やったー!」

ちはやはなぜか嬉しそうにガッツポーズをした。その呑気な態度に吹き出しそうになりながら歩道橋を駆け降りた。前を歩くちはやの足取りは軽く、まるで遊園地にでも向かうようだった。中学から陸上部でそれなりに成績を残しているちはやは、この高校にスポーツ推薦で入学したそうだ。必死に受験勉強をした啓太の入試の結果は散々で、合格ラインをギリギリ下回っていたが定員割れによって見事入学を果たしたのだ。そのことでちはやを妬んだ時期もあったが、今となってはあまり気にしていない。

「昇降口まで競走する?」

校門に着いたとき、振り向いたちはやに声をかけられた。真っ白な八重歯を覗かせて悪戯っぽく笑う無邪気な態度に苦笑いをこぼした。まるで公園ではしゃぐ小学生を見ている気分だ。

「いや、陸上やってるお前とじゃ勝負にならないだろ。」

やれやれ、と手を振った。勝ち目のない勝負をするつもりはない。すると、ちはやはわざとらしく、身につけてもいない腕時計を確認する仕草を啓太に見せた。咄嗟にスマホを取り出し時間を確認すると、補習開始のニ分前だった。慌てて駆け出した時には、既にちはやの背中がはるか遠くにあった。



終業を告げるチャイムが鳴ったのは十三時を少し過ぎた頃だった。

「それじゃあ、明日もまた時間厳守で。」

気難しそうな数学教師は素っ気ない態度で言うと、無駄に綺麗に書かれた数式の上に黒板消しを走らせた。天井からぶら下がる扇風機はゆっくりと首を回している。時折その風が髪を撫でるのを感じながら、啓太はそそくさと片付けを進めていた。

「お疲れ!啓太」

特徴的な声に顔を向けると、隣の机に寄りかかるちはやが微笑んだ。紺色のショルダーバッグには、いくつかのアニメキャラのストラップがぶら下がっている。

「おう、お疲れさん。」

「この後暇?一緒に昼食べにいかない?」

「陸上部は大丈夫なん?」

グラウンドを走る陸上部を横目に聞いた。

「うん。今日は一年は休み。」

そう言うとちはやはポケットからスマホを取り出し、何かを調べる素振りを見せた後、画面をこちらに向けてきた。

「実はさ、すごい美味そうな店見つけちゃってさ、これ!」

画面いっぱいに映し出されているのは、たくさんの果物で鮮やかに彩られた巨大なパフェの写真だった。

「これが昼飯?随分とゆめかわだな。」

「もちろんデザートに、だよ。昼飯はいつものラーメン屋な!」

啓太とちはやが足繁く通うのは、駅前にあるラーメン三好という老舗のラーメン店だ。規格外の物量と破格の値段が学生に人気で、中でも醤油豚骨ラーメンは随一の売り上げだという。

「つーか、このパフェ見た感じ相当デカいと思うんだけど大丈夫なのか?」

「余裕余裕、超余裕。俺成長期だから」

そう言って腰に手を当て、自信満々といった表情で鼻を鳴らした。中学の頃から全く変わらない様子にどこか懐かしさを覚え、こちらもちはやに向かって笑い返した。

「わかったよ。行こうぜ」

スクールバッグを肩にかけて席を立つと、ちはやもそれにつられるように立ち上がった。いつの間にか啓太の前を歩くちはやの足取りはやはりとても軽そうだ。


「あー、超美味かった〜」

そう言って満足そうにお腹をさするちはやは、総重量が二キロを超えるパフェを裕に平らげた。直前に大盛りの醤油豚骨ラーメンで胃袋は満たされているはずだが。いったい彼の腹の中はどうなっているのだろうか。

「まさか本当に全部食っちまうなんてな」

「言っただろ?超余裕だって」

ちはやは悪戯っぽく舌を出した。

「んじゃ、そろそろ解散するか?」

店を出たところでスマホを確認すると、時刻はちょうど十五時半を回ったところだ。

「あー、もう解散?この後なんか予定あるの?」

何か言いたげな表情のちはやを不思議に思った。いつもならだいたいこのタイミングで解散して帰宅する流れだ。

「他にどっか行きたいとこでもあんの?」

何の気なしに聞いた。

「いや、そういうわけじゃないけど…」

そう言って、どこか憂いを孕んだ目を伏せた。生ぬるい風に髪が靡いた。ちはやの煮え切らない態度にもどかしさが募る。なんだか今日のちはやはらしくない感じがする。

「もしかして、一人で帰るのが寂しいとか?」

冗談っぽく笑いながら言うと、ふいにちはやが顔をあげた。健康的に日に焼けた顔は、少し赤らんでいるようにも見える。

「…だめ?」

恥ずかしそうに口に出した声は、今まで聞いたことのない響きだった。唇が少し震えている。

「えっ?」

「だから、啓太と一緒にいたいと思っちゃだめ?」

ちはやの発言を理解するのにはいつもより少し時間を要した。しかし、依然として意図はわからない。

「いや、だめじゃないけど…急にどうした?」

ちはやの突飛な発言に心底困惑しているが、できる限り平静を装いながら聞いた。一方でちはやは目を合わせようとせず、返事も返さない。二人の間に沈黙が流れる。いったいなんだというのか。この場の空気にいてもたってもいられなくなり、口を開きかけたその時だった。

「啓太はさ、俺のことどう思ってる?」

「え?」

不意に飛んできた質問に呆気に取られた。ちはやはそんな啓太の様子を見ると、背中を向けて続けた。

「俺実はさ、本当は女として生まれるはずだったんだ」

声が少し震えているのがわかった。

「でも身体は男で生まれてきちゃってさ。毎日悩んでたんだ。どう生きればいいのかって。怖かったし、辛かった。周りから変なやつだと思われるのが。」

肩が震えている。啓太はただじっとちはやの背中を見つめていた。蝉の鳴き声も、犬の遠吠えも、風に靡く風鈴の音も、なにもかも今の啓太には聞こえなかった。

「男物の服とかいっぱい買って、髪も短くして、口調も荒っぽくした。それでも女っぽい内側の部分までは隠しきれなくって、いつも気持ち悪いって色んな人に避けられてきたんだ。」

ちはやはゆっくりと振り返り、いつもみたいに無邪気に微笑んだ。

「でも啓太は違った。俺みたいなやつとも普通に接してくれた。初めて自分ていう存在を認めてもらえた気がしたんだ。優しくて、いざって時頼りになって、弱さも見せてくれて。本当に、啓太みたいに良いやつは他にいないからさ」

「だからさ…」

ちはやはそこで言い淀んだ。またも俯いて、ゆっくり身体をこちらに向けた。啓太はただその様子を見つめ、次にちはやが言葉を発するまでじっと待っていた。暫くして意を結したように手を握りしめると、何かに縋るような表情で顔をあげた。

「ぼくのこと、見捨てないで」

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