第9話 管理人
男子寮の一階、一番端っこが俺の部屋だ。こういう時は自分の部屋が一階にあるのは助かる。
窓は常に開けっ放しなので、管理人室の前を通らなくていいのだ。
とは言えだ、道中は人目を気にしておかないと、清掃中の冷さんと鉢合わせする可能性もある……、その後、なんとか、誰にも見られずに部屋の前までこれた……。
ゆっくりと、窓に手をかけ、
「ねえ、そこまで物音を立てないようにする必要はないんじゃないの?」
やり過ぎかもしれない……けど、そういう気分だろ。
スパイごっこみたいだ、とも思うが、そうでなくとも冷さんは些細な物音にも気づく人だ。
油断はできない。
窓を開け、隙間を作る。そして、先に俺が部屋の中へ入った。
よし、順調だ。
「まずは、そいつを部屋に入れる」
「この子? 優しくしてよ、あんたに怯えるかもしれないし」
だとしても、俺にどうこうできる問題じゃないな。優しく扱うけどさ……。
牧野からキツネを受け取ると、毛がふわふわしてて、ぎゅっと抱きしめたくなる……緊張感が一気になくなった――、っ、気を抜くな! 集中だ、集中っ!
その時だ、がちゃりと扉が開いた。
部屋に入ってきたのは男子寮の管理人——
「暇そうにしてるだろうと思って遊びにきてやったぞー」
ばばっ、と、キツネを慌てて布団の中に隠す。
な、なんでこんな狙ったようなタイミングで!? どこかで見てたのか!?
「な、なんだよ、冷さん……」
「だから言ったじゃん、暇そうにしてるだろうから、遊びにきたぞって」
「俺って、そんな暇そうに見えます……? これでも結構、忙しいですよ?」
「ふうん。忙しいのはあれ、やんちゃしてるから?」
冷さんがポニーテールを揺らしながら。
目がきらり、と光っている……、どんなことも見抜かれそうな強い瞳だ……。
冷さんは、女性にしては活発な方だ。だからこそ、男子寮を任されたのかもしれないが……、腕っ節の強さで言えば、この寮の男子では敵わないだろう。
……それに、逆らうことができる男はいないのだ。たとえ先輩でも……。
俺は冷や汗をだらだらと流す。さっき、牧野にはなんとかする、的なことを言ったけど、いざとなってみるとすげえ怖い……。今すぐにでも、土下座をしていた方がいいのでは……?
いや、男に二言はない。このままキツネがじっとしてくれればいいわけで――
「こんっ」
「…………」
「…………」
布団の中にいるから少し聞き取りにくいが、しかし俺に聞こえたのだ、冷さんにも聞こえているだろう。そうでなければ、冷さんの目が段々と鋭くなっていくわけがないし……ッ!
「ねえ、楽くん?」
「は、はいぃっ!」
にっこり、と。無邪気な笑顔である。平和しか知らない純粋な子供のような笑顔を俺に向けている……意図的に。それが、さらに怖さを演出している。
俺は逃げるため、腰を落とす。逃げるタイミングを失うことは、死を意味する。絶対にタイミングを見失ってはならない。今、この場は戦場なのだ――。
そうだ、今、俺は兵士である。だが、この人と戦ってはならない。前進してはならない。望むのは、撤退だ。
しーん、と、そして、かち、かち、と。時計の針が、12を指した――その時だ。
それを合図にし、俺は窓から全速力で逃げることを決意する。
よし、今がチャン――がしっ――スっっ!!
え?
がし?
俺の体は進もうとしているのにまったく進んでいない。足だけが動いて、から回っている……、というか宙に浮いている。だから地面を蹴れていないのだ。
そりゃそうだ、だって俺の肩には冷さんの手があって、俺をがしっと捕まえているんだか――ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!?!?
「楽くん? ちょっと、あっちで話そうかー?」
「やめっ、関節技を、決まってる痛い痛い折れる折れる!?」
「全員が通った道だ、がまんしろこの悪ガキ」
俺がこんな目に遭っていると言うのに、牧野は姿を見せようとしない。
たぶん、隠れて笑っているな?
……ちくしょう、最後に「こんこんっ」と聞こえて、俺は深い眠りへ、落ちていく。
―― ――
――きて、おき――よ、ねえ、——ってばっ。
そんな声が薄っすらと聞こえる。声からして……牧野か。
――ないよ、——どう、——よう——さん。
――おも――り、ぶ――なぐ――ば、いいんじゃ――い?
――こん――こ――こんっ。
冷さんの声も聞こえるし、あのキツネの声も……。
俺、今どうなっているんだ……?
途切れ途切れだった声が段々と聞こえるようになってくる。
俺も、沈んでいた意識が戻ってきたようだ――光が、見えてくる。
見慣れた天井、俺の部屋だ。俺は今、ベッドの上にいるらしい……そして俺の上に跨り、その手を拳にして、振りかぶっている牧野の姿があり――、
「もうっ、殴るしかないんだよねっ! がまんしてね、楽!」
「待て待て待て! 起きてるからその手を止めろぉ!!」
俺の鼻先で、拳がぴたりと止まった。
背中から汗がぶわぁと出てきた……あ、あぶねえなあ……っ!
「あっ、気が付いた!? 良かった、心配したんだからねっ!」
「そのセリフ、俺を殴ろうとしたやつとは思えねえな」
「……そんなあんたも、あの子の置いて逃げようとしてたじゃない」
やっぱり見てたのかよ……それは、まあ悪かったけどさ。
「あと冷さんも! 牧野に変なことを教えるなよ!」
すぐに手を出す癖、直した方がいいと思うよ。
「護身術だ、身を守る技を教えるくらい、いいだろ。お前も心配じゃなくなるだろ?」
「牧野が将来、あんたみたいな暴力女になったらどうするんだ……」
「魅力、あるでしょ?」
「ないよ」
関節技を決められた時、押し付けられた胸くらいしか魅力は――
瞬間、びゅお、と俺の真横を通り過ぎるそれ――、拳。
俺の耳元で囁くように、冷さんが言った。
「魅力、あるよな?」
「……はい、めちゃくちゃありますね――はい」
こんこんっ、という鳴き声が聞こえる……「そりゃそうなるわ」みたいに言われてもなあ。
あのキツネ、馴染んでやがる。
すると、キツネが冷さんの膝に上がった。
「まあ、牧野ちゃんがそこまで言うなら、今回は折れてあげてもいいわ」
「本当!? 冷さんありがとうっ、大好き!」
現金なやつ、という表情を浮かべる冷さん。
え、っと……?
なんの話だ?
と、冷さんがキツネを抱き上げ、俺に向けてくる。
渡されたので、俺は受け取り、
「いいの? だって、ペットは禁止じゃ……」
「隠して飼われるくらいなら認めた方がトラブルが起きないわよ。正面から堂々と相談してくれれば、あたしだって考えたわ……だから、こそこそするな。管理人なのよ、同時にあんたたちの親でもあるの。相談してくれなきゃ、いる意味がないわ」
「で、でも、情さんに相談したら即答でダメって言われて……あの人はルールに厳しいよね?」
「ほう」
あ、冷さんの中でスイッチが切り替わったのかもしれない。
情さん、ごめん。押してはいけないものを押してしまったかもしれない。
「あと、こそこそと、なにかやましいことでもしてるみたい」
「ほおほお、なるほど」
「あんた、背中を押したでしょ」
ついでだし。情さんの取り乱し方を考えると、黒寄りの灰色じゃないか?
「へえ、あいつは困っている生徒を見捨てて、しかもそれを、あたしに押し付けてきたと、そういうことなんだな?」
「いや、別にそこまで酷いことは」
「そうなんです!!」
って、おい。
牧野が、身を乗り出してそう言った――あの人を売ったな、こいつ。
牧野も、断られたことを根に持っていたんだな……。
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