八話
「いっぱい店があるな。石川さん、どこがいい?」
シンヤ君が私に訊いてくる。
「んー、じゃあ、ここ」
私が適当なお店を指差した。
「よし分かった。ここにしよう」
シンヤ君がエレベーターのボタンを押す。
「あ、このお店二階みたいだから、そこの階段からすぐに行けるよ」
「マジで? じゃあ階段で行こう」
シンヤ君と駅で会ってから、お店の看板の前まで来る間、つまり今のやりとりの手前までの間、彼と何を話していたのか私はよく覚えていないのだった。
私達が階段を昇り始めた時、後方でエレベーターの開く音がした。何気なく振り返ると、数組の男女がエレベーターに乗り込むところだった。
席はブースで区切られており、半個室のような場所に私達は腰を下ろした。ちょうど人二人が入れるスペースだ。窓際の席で、先程の通りに面している。
「石川さん、何飲む?」
「梅酒ロックで」
「へえ、しぶいねえ」
シンヤ君が多少の驚きと笑顔を見せる。
「じゃあ俺はビールで」
それから取りとめのない話が延々と続いた。彼がなかなか本題に入ろうとしないので、私から切り出すことにした。
「シンヤ君、あたしに相談したいことがあるって言ってたよね。何?」
「いや、実は、その・・・」
目の前の彼は、一層歯切れが悪くなったようだ。そういえば、今日会った時からどこかソワソワしてたっけ。今頃になってそんなことを思い出す。
「俺と付き合って欲しい」
意を決した発言だったようだ。真っ直ぐに私の目を見据えてくる。心のスイッチが入り、シンヤ君は次第に自信を取り戻していくようだった。お酒の力も後押ししているに違いない。
「相談事があるんじゃなかったの?」
私は再び問いかける。
「これが相談」
「・・・」
窓の外の世界で、若い女の人が交差点を渡っているところが見えた。ところが、途中から小走りになる。バッグを持つ反対側の手で頭の上をおさえているのだった。まるで手の甲を傘代わりにするかのように。どうやら、雨が降り始めたらしい。
よく見ると道路の路面がより黒く染まりつつあった。けれど、現時点での雨足は、所詮ポツポツ程度だ。
「大学一年の頃からずっと気になってたんだ」
シンヤ君の方が先に沈黙を破ってくれた。私としても助かった。
「・・・」
言葉では何も言わなかったが、私の視線先をテーブルの下へと移すことによって、多少の反応は示したつもりだ。
「サークルに入った時からずっと。一緒にバドミントンやってて、スゲー楽しかった」
「どうもありがとう」
ほんの一瞬、シンヤ君の方を見つめ、すぐにまた視線を足下に戻す。
「トシユキと付き合ってる、って聞いた時、あの時はもう諦めようと思ったけど。でも俺はやっぱり諦めきれない」
シンヤ君は私から目を逸らそうとしない。
「ちょっと待って。あたし、今付き合っている人がいるの」
「でもうまくいってないらしいじゃん?」
らしい、という表現が引っかかる。というか、そもそもうまくいっていない訳ではない。
「誰か何か言ってた?」
「・・・」
今度はシンヤ君が黙る番。ところが、その表情からピンときた。
「トモミでしょ?」
「・・・」
「トモミのヤツ・・・」
私は少し飽きれ顔を作る。シンヤ君が何も言い返してこないということは、トモミから何かを聞いたということを首肯していることと同じだ。
それにしても、トモミのヤツ。
私は心の中でもう一度繰り返した。彼女が何か、シンヤ君を誤解させるような言い方をしたに違いない。あの阿婆擦れめ、と心の中で冗談ぽく毒づきながら微笑んでみせる。全く、トモミらしいな。
「俺だったら石川さん、いや、京子を幸せにできると思うんだ」
「あたし、今十分幸せです」
「今よりも、もっとだよ」
私のことを、京子と呼び捨てにしたことはあまり問題ではない。むしろ、そんなことどうでも良い。
「気持ちはありがたいけど、あたし、今の彼を裏切るようなことはしないから」
「そうかな。さっき京子は幸せって言ってたけど、そうじゃないって俺には分かるんだ」
「あら、どうしてかしら?」
これは心から素直に思う疑問だった。
「表情だよ。なんていうか、雰囲気」
「雰囲気?」
「そう。本当に幸せだったら出るはずの、自然と内から湧き出るオーラみたいなのが、感じられない。だからきっと、京子は今の彼氏にどこか我慢してるんだよ。そうに違いないんだ」
お酒のせいなのかよく分からないけれど、どこまで思い込みの激しい人なんだろう。
「ごめんなさい。無理です」
「どうして? 俺がこんなにも想っているのに」
世の中本当にこんな台詞を吐く人が居たんだ、と極めて冷めて感じている私。お酒に背中を押され、熱くなってしまっているシンヤ君。
きっと、二人の温度を足して二で割ったら、お互い正常な人間に戻れるに違いない。
「そろそろ帰りましょ」
私はバッグを手に取り、店員さんの呼び出しボタンを押す。ふと、窓の外を眺めてみると、雨は本降りになっていた。歩道を行き交う人々の姿は、最早あまり見受けられず。居たとしても、皆、傘を慎重に差して歩いていて、どんな表情をしているのか全く読み取ることができないのだった。
「はい、お客様。お呼びでしょうか?」
「お会計をお願いします」
かしこまりました、と女性の店員さんが私に笑顔を向けた。
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