九話
私はエレベーターに乗り込むと、すぐさま五階のボタンを押す。一緒に乗っている人間は誰も居ない。この子は今日も途中で一度も停まることなく、五階まで私を運んでくれた。
「よし。偉いぞ」
扉が開く直前、私は小さく呟いた。通路に出ると、右手の湯沸かし室に明かりが点いているのに気づく。私はちらっと覗いてみることにした。
この階のテナントは、私がバイトしている学習塾だけだったから、講師の誰かではないかと思った。案の定、私の知っている人間がそこには居た。コンロでお湯を沸かしているところだった。
「こんにちは」
私は挨拶した。
「コーヒー飲む?」
挨拶を返す代わりに、相手が笑顔で問いかける。口の右端を吊り上げて。
「いいえ、結構です。あたし、コーヒー飲めないんで」
私も笑顔で応えた。
「ああ、そういえばそうだっけ」
何かを思い出したような顔を作り、コンロの方に視線を戻す。
「室長、何か良いことでもありました?」
「どうしたの急に?」
「なんか最近、室長の表情が明るいなって」
先週から感じていたことだ。
「まあね」
「・・・もしかして、遂に4年続いている彼氏さんからプロポーズ、とか?」
「ちょっと違うけど。まあ、そんなとこ」
「わお。遂にやりましたね」
私は好奇心丸出しのような顔をセットする。
「今度時間ある時ゆっくり話してあげるから。教室入って早く授業の準備しな」
「承知致しました!」
と、言って私は湯沸かし室を辞去する。ついつい揶揄したような言い方になってしまった。
教室に入ると、カウンターにはエリカが座っている。
「こんにちは」
私がエリカに挨拶した。
「あ、京子。さっき、マイコちゃんのお母さんから電話があって、マイコちゃん、熱出しちゃったんで今日の授業はお休みするってさ」
エリカも挨拶を返す代わりに、事務連絡を私に伝える。勿論、今回は笑顔付きではなかった。マイコちゃんというのは、今日授業を担当する生徒の一人だ。中学生の女の子だった。
「あらら。了解しました。ありがとー」
講師室には健史先生と、彼。水曜日のこの時間帯でのいつものメンバーだ。二人に挨拶を済ますと、バッグを床の上に置き、ハンガーにかかっている自分の白衣を取る。代わりに着ていたジャケットをハンガーにかけ、白衣に袖を通す。
それから、教材棚から数学Ⅲの教科書と問題集を取り出す。我ながらきびきびとした動作だった。今日は中学生の生徒が欠席となってしまったので、高校生の生徒の授業準備だけをすれば良い。結構時間がギリギリだったので、正直助かったと言えば助かった。
テーブルに座り、問題集を開いて、私は授業の予習を始める。今週もまた、健史先生と彼は、熱弁を交わし合っていた。彼らの会話がなるべく意識に入り込んでこないように、私は授業の準備に集中することにした。今日は等比数列の極限を教えることになっていた。
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