第24話 人としての意地

 “魂”とは何か――それは長らく、この世界の学者、魔法使い達が追いかけてきた命題であった。

 人間のみならず、この世に生まれ落ちた生物の“核”となるものの答えを、人間は今日に至るまで探し続けてきたのだ。


 はたして存在するのか、存在したとなればそれはどのような“理”の元に成り立っているのか。

 幾星霜、議論を繰り返したところで、残念ながらこれといった明確な答えには辿り着けていないのが実状だ。


 だがそれでも、そこにある程度の“あたり”をつけた人間は、いくつかいた。

 数少ない魔法使い達は、“魂”と“魔力”は密接に紐づいているのだと仮定したのである。


 生まれた瞬間から、すでに幼子の肉体に宿り、弱々しくも確かに脈動する“魔力”。

 それこそが“魂”が生み出す力であり、いわば魂が持つ“色”こそ、個人が持つ魔法への適正、才能なのだと考えられてきた。


 そのある種の疑惑を徹底的に追求し、さらに“先”を追い求めた者達がいた。


 もし仮に、人間の体内に宿る“魔力”を、肉体と分離させ稼働することができたのなら――その荒唐無稽な思想は、瞬く間にある一つの“術式”を作りあげてしまう。

 肉体から“魔力”を切り離し、自我や意志をその“魔力”の側に移し替えることができれば、もはや肉体などというものはただの器に過ぎない。

 壊れようが、切り刻まれようが、“魔力”が残っている限りは決して傷付くことはなく、死ぬこともないのだ。


 それを人は時に、“不老不死”と呼んだ。

 だが本来あるべき“魔力”を切り離すという所業を、偉大なる大魔法使い達が野放しにするわけはなかった。


 “術式”はすぐさま、禁忌とされ、封印される。

 だが身に宿った“探求心”という魔物を飼殺すことができず、その封を切ってしまった“大罪人”がかつて存在した。


 好奇心に憑りつかれ、“知”の深淵を覗こうとした大魔法使い・ヴァドス。

 彼によって解き放たれた術式は、やがて彼の死と共に再び野に放たれることとなる。


 それが、数多くの古文書、歴史書を紐解いたことで、彼の息子・ニンバムが辿り着いた結論だった。


 秘術・“乖離魂術ドミネイション”――ニンバム、マウマウの眼前で立ち上がる“魔女”が身に着け、行使しているのがそれだ。


 打ち砕かれ、ボロボロになった肉体――否、“肉塊”の背後で、巨大な魔力のヴィジョンが手を持ち上げる。

 冷気によって作り上げられた真の“魔女”が、傀儡として操っていた仮初の肉体に指示を出す。

 おびただしい魔力が空間から流れ込み、イシスのか細い体を変化させた。


 折れ曲がった手足が、嫌な音を立てて無理矢理に伸ばされる。

 欠けた肉の内側から“氷”の結晶が沸き上がり、角のように肉体の至る箇所を覆った。

 刺々しく変化したそのシルエットは、かつて暴走したニンバムが見せた、あの巨体にとても良く似ている。


 魔力の結晶によって“怪物”としての姿を取り戻したイシスの“入れ物”が、折れ曲がっていた首を正しい位置に戻す。

 見開いた目は白濁していたが、それでも開け放たれた口から“魔女”の咆哮が響き渡った。


『へえぇ~。あんた達、私の“秘密”に気付いたわけぇ?』


 相変わらずその声はどこか間延びしていて、まるで緊張感がない。

 だが、その飄々とした波長の裏側に、今までにはなかった深く、鋭い怒りの色が覗く。


 ぱきぱきと音を立て、空中に氷が広がっていく。

 それはイシスの肉体の背後へと延び、か細くも刺々しい肉体に、美しい造形物を背負わせる。

 “翼”のようにも見えるそれが、魔力によって鋭さと大きさを増していった。


『褒めてあげるわぁ、賢いのねぇ。けれど、分かっていながら私に立ち向かうって言うなら、それこそ本当の“大馬鹿”ねぇ』


 乾いた音が連なっていく。

 刺すような冷たさが空間を支配していく中で、マウマウとニンバムはなおも緊張した構えを作ったまま、彼女を睨みつける。


『私が敗北するなんてことは、絶対にありえない――ましてや、あなた達程度の“害獣”じゃあね? 好きにしてみればいいわぁ。それを受け止めた上で、ぜぇ~んぶ、否定してあげるから。弱い生き物が、生きている意味なんてない――ってね』


 イシスの――その背後に浮かび上がる“氷の魔女”の高笑いが響いた。

 氷で作られた床や壁のその上に、さらに幾重にも薄氷と霜が連なり、重なっていく。

 二人の吐息が真っ白に染まり、じわじわと肉体を冷たさが侵食していった。


 魔女が生み出すより凶悪な“冬”に包まれ、ほんのわずかに二人はたじろいでしまう。

 だがやはり、この状況でもなお“ねずみ”の獣人が前を向いて笑っていた。


「生きる意味、かぁ――考えたことないやぁ、そんなの」


 そのあっけらかんとした一言に、“山羊やぎ”の獣人がちらりと彼女を見た。

 マウマウは拳を持ち上げ、ぶるぶると肉体を震わせながら“魔女”を睨んでいる。


「あなたの言う通り、私、“馬鹿”だからさぁ。そういう“賢い生き方”って、分かんないんだよね。だから私は――それこそあなたの言う通り、好きなようにするよ。どれだけ怖くても、辛くても、ここで逃げるなんて絶対に嫌だ!」


 マウマウの放った言葉が、すぐ隣の“賢人”を震わせた。

 再び決意を固めたニンバムも、杖を構えなおして前を向く。


「そうですね。私もお言葉に甘えようと思います。おっしゃる通り、好きにやらせていただきますよ。全身全霊――私達の持てる限りの力で!」


 二人の決意が、“魔女”の逆鱗に触れた。

 背後のヴィジョンが両手を広げた瞬間、視界の至る所に鋭く巨大な“つらら”が無数に浮かび上がる。


 イシスが迷うことなく、鋭利な氷の牙を発射した。

 その圧倒的な物量に、ニンバムが素早く対応する。


 瞬間、室内の空気がねじれた。

 ニンバムは二人の周囲に巨大な“竜巻”を生み出し、向かってくるつららを全て、風の波でからめとってしまう。

 しかも飲み込んだ大量のつららを、そのまま軌道を変え、更なる勢いを加えてイシス目掛けて発射してしまった。


 自分へと返ってきたつららに対し、あくまで“魔女”は憮然としたままだ。

 なんとイシスは刺々しく変形した両腕を振り回し、次から次へとつららを砕き割ってしまう。


 先端がつららに触れるたび、か細い腕もまた嫌な音を立ててへし折れる。

 だがすぐにそれを無理矢理に凍らせ、固め、再生することで次の一撃に繋げていた。


 人外の迎撃術を披露するイシスだったが、向かってくるつららのなかに“それ”を発見し、息をのんだ。


 襲い掛かってくるつららのなかに紛れ、いつの間にかマウマウが飛びかかってきている。

 彼女は右拳を振りかざし、まるで躊躇することなく跳びかかってきた。


「おぉぉぉぉぉおおおりゃあああああ!!」


 気合一閃――咆哮と共に叩き込まれた一撃が、イシスの体を防御ごと吹き飛ばす。

 空間が鳴動するなか、すぐさま床を蹴り、マウマウは追撃した。


 一撃、また一撃とマウマウの体術が炸裂する。

 どれもイシスの腕や足で受け止められるが、格闘士の打撃は“魔女”のか細い四肢ではまるで防ぐことができない。

 殴り、蹴るたびに魔女の肉体が激しく歪み、あらぬ方向へと吹き飛んでいく。

 駄目押しとばかりに振り上げた“槍”のような蹴りが、イシスの胴体を貫き、天高く打ち上げた。


 背骨の折れた感触こそ伝わってきたが、イシスにとってそんなものは問題でもなんでもない。

 吹き飛ぶ肉体は空中で元通りに再生され、その体に巨大な魔力の“像”がまとわりついていく。


 だが、荒ぶる体術が無効化されたとて、マウマウが止まることはない。

 彼女は蹴りを突き上げた体勢のまま、“彼”の名を叫ぶ。


「ニンバムーー!!」

「――承知ですッ!!」


 “賢人”は強く呼応し、タイミングを合わせた。

 両手で握りしめた杖を床に突き立てると、“カツン”という乾いた音と共に肉体に蓄えた魔力が放出される。


 変化は地面ではなく、空中に起こった。

 打ち上げられたイシスのその周囲の空間に、無数の“光の輪”が浮かび上がる。


 イシスは自身を取り囲むその不可解な光の群れを一瞥いちべつした。

 ニンバムが歯を食いしばり顔を持ち上げると、一気にその術式が発動する。


 宙に浮かぶ“魔女”目掛けて、ニンバムの放った「光閃乱穿クラウ・ソラス」なる力が襲い掛かった。


 “光の輪”――否、魔力によって生み出された“門”の中から生成されたエネルギーが、青白く輝く“光の矢”となって飛翔ぶ。

 中央に位置するイシスを貫くべく、曲がることなく最短距離を“力”が走った。


 一撃が放たれるごとに、空間が鳴動し、光が視界を染める。

 イシスはくるくる回転しながら“氷の壁”を生み出し、向かってくる光の束を受け止め続けた。


 だが、彼女がどれだけ応戦しようとも、まるで無慈悲に、容赦なく“光”は肉体を貫く。

 四方八方、全方位から立て続けに襲い掛かる魔力の“矢”に、さしもの“魔女”も対応が間に合っていない。


 腕が、肩が、胴体が、足が――閃光が走るたびに肉体が穿たれ、大穴が開いた。

 だがどれ程ずたずたに切り裂かれようとも、すぐさま欠けた肉体は“氷”によって埋め合わされ、再生されてしまう。


 会心の当たりでありながら、マウマウとニンバムにはまだ、自分達が“魔女”を追い詰めているという実感を抱くことができない。

 そんな二人の不安を察したかのように、頭上のイシスの声が響く。


『踊り狂いなさいなぁ――みすぼらしく、滑稽にねぇ――』


 か細い肉体が――その“器”に纏わりく巨大な“白い影”が、両手を広げた。


 瞬間、周囲の空間がどくんと震えた。

 “城”に蓄えられた魔力が反応し、ホールに立つ二人に向かって襲い掛かる。


 周囲の床や壁から、一瞬にして無数の“氷の腕”が生える。

 マウマウとニンバムが息をのんだ瞬間、それらがほぼ同時に二人目掛けて襲い掛かった。


 マウマウは素早く跳び跳ね、ニンバムも冷静に見極め時に魔法で防ぎ、対処していく。

 一撃をかわすたびに“腕”は砕け散り、破片をそこら中にばらまいた。

 炸裂した箇所が衝撃で吹き飛び、いくつもの不格好な“穴”を開けていく。


 整っていたホールの光景が、瞬く間に“戦場”へと変わっていった。

 マウマウとニンバムは右へ左へと必死に回避しながら、なんとか“魔女”の隙を伺う。

 

 せめて、一撃でも――二人の意思を悟ったかのように、イシスは次の一手に出た。


『逃げ場なんてあるはずないじゃなぁい。特にこの部屋の中には、どこにもねぇ?』


 言葉の意味を理解する前に、二人の肉体に変化が起こる。

 着地し次の一手を見据えるマウマウ、そして杖を構えて防御の体勢を作るニンバムは、ほぼ同時にその“異変”に気付いた。


 肉体が重い――気がついた時には、二人の全身、至る箇所に小さな“氷の結晶”が張り付いていた。

 それはまるで“枷”のように重みを与え、体温を着実に奪っていく。


 マウマウが「えっ!?」と声を上げる中、ニンバムはその正体にいち早く気付く。


「マウマウさん、注意を――ッ!?」


 “賢人”が叫んだ時には、すでに遅かった。

 二人の肉体に纏わりついた“氷の枷”は、周囲の空間に散っていた結晶を取り込み、急激に肥大化する。

 重さが一気に増し、二人の肉体ががくりと沈み込んだ。


 砕けた氷は決して消えることなどなく、空中にとどまり続けていたのである。

 知らず知らずのうちにそれは二人の肉体に付着し、徐々に大きさを増し、着実にその時を待ち続けていた。


 肉体に課せられた重みに、一手が遅れてしまう。

 マウマウとニンバムはそれぞれ、下から襲い掛かった“氷の拳”を肉体に叩きつけられ、宙高く打ち上げられてしまった。


 悲痛な声が同時に喉元から響く。

 きりもみになる二人を前に、宙で手を広げたイシスは続けた。


『どうかしら。やっぱり私は美しくって――とぉっても、強いでしょお?』


 マウマウ、ニンバムの返答など待たず、“氷”がイシスの肉体へと集まっていく。

 か細い肉体の背後に集まったそれらはみるみる肥大化し、一対の巨大な“翼”を作り上げた。


 ホールに差し込む太陽の光を受け、イシスは手を広げ、天を仰いでいた。

 白くか細い肉体に、刺々しい“氷の結晶”と、巨大な“翼”を携えた姿が、二人の心に異次元の荘厳さを刷り込む。


 しかし、イシスという“氷の天使”に、“慈悲”などという概念はない。


 “魔女”は両腕を大きく振るい、肉体ごと真横に回ってみせる。

 彼女の動きに合わせ“翼”がはためき、部屋の中の空気を一気に加速させた。


 生み出された激流のような風に、マウマウ、ニンバムの体が翻弄される。

 高速で回転するその冷気の渦の中で、次から次へと“氷”が生み出され、天地上下すら乱れる二人目掛けて襲い掛かった。


 防御を固め、時に打ち返すマウマウ。

 なおも魔法によって迎撃し続けるニンバム。


 そんな二人の必死の抵抗もむなしく、冷気と“氷”が幾度となく二人の肉体を叩き、刻み、貫いていく。

 二人の全身から鮮血が噴きあがったが、飛び散ったそれすら結晶として作り変えられ、再び二人へと牙を剥いた。


 イシスの生んだ“猛吹雪”が止み、二人の肉体が落ちる。

 マウマウ、ニンバムは受け身すら取れず、高速回転したまま床へと叩きつけられてしまった。


 二つの悲痛な声を聞き、ようやくイシスは満足する。

 背から生えていた“翼”が砕け散り、その肉体がふわりと床へ降下してきた。


 彼女が腕を一振りするだけで、荒れ放題だった“戦場”が再び整地される。

 砕けた氷は逆再生するかのように元あった場所に戻っていき、すぐに元通りの“城”の姿へと回帰してしまった。


 元通りになった大広間の床に、傷だらけで転がるマウマウとニンバム。

 地に這いつくばる二人を見下ろしながら、“魔女”は静かに着地する。


『そうそう。そうやって、みすぼらしく地面を這ってればいいの。それが、あなた達みたいな“獣”のあるべき姿なんだからねぇ』


 堂々とした侮蔑に対し、二人はすぐさま反論したかった。

 だが悲しいかな、全身に刻まれた傷と痛みがそれを拒絶してしまう。


 ニンバムがそれこそ“獣”じみた形相で歯を食いしばり、なんとか杖を突いて立ち上がろうとする。

 せめて気持ちだけでも、目の前の存在に押し負けたくはなかったのだ。


「なめないでください……この程度で、屈したりなど――」


 右足に力を込め、なんとか体を持ち上げる。

 だが、そんな彼の肉体の奥底で、今まで眠っていた“呪い”がどくんと、大きく脈を打った。


「――ッ!?」


 その明確な変化に、イシスはもちろん、地に伏せていたマウマウも気付く。

 二人が見つめる中、ニンバムは自身の胸を押さえて苦しみ始めた。


 まずい――その意味するところを、これまで共に歩んできたマウマウも悟る。

 かつてそうだったように、ニンバムの肉体に刻み込まれた“呪い”が、再び暴れ始めようとしていた。

 傷付けられ、疲弊し、肉体という“枷”の力が弱まったことで、押さえ込んでいた力が肥大化し、内側から容赦なく責め立てる。


 カッと全身が熱を帯び、肉や骨がぎしぎしと軋んだ。

 そのおぞましい感覚に悲痛な唸り声をあげながら、ニンバムは片膝をついたまま歯を食いしばる。


 そんな“賢人”に向けて、なおもイシスは容赦なく笑った。


『あらあらあらあらぁ、辛そうねぇ。けれど、あなたに眠っているその“力”なら、もしかしたら私に勝てるかもしれないわよぉ? ほら、我慢せずに、また“変身”しちゃいなさいな。もっともっと醜くておぞましい、“怪物”にねぇ?』


 どくん――と、また一つニンバムの肉体が脈打った。

 暴走を始めようとする肉体を必死に抑え込む彼に、マウマウは叫んだ。


「ニンバム、しっかり! 負けちゃだめだよ!!」


 “ねずみ”の放った声を、鈍く重い音色が押しつぶす。

 イシスの生み出した“氷の腕”が、マウマウの脇腹を真横から殴り飛ばしてしまった。

 悲痛な声を上げるマウマウを笑いながら、なおもイシスは横目に語る。


『ほらほらぁ、急がないと“ドブネズミちゃん”が先におだぶつになっちゃうわよぉ? 男の子なんだから、しっかりと守ってあげなきゃあねえ?』


 イシスはマウマウを傷付けることで、ニンバムの心を攻め立てる。

 そうして彼を憔悴させ、再び“呪い”に飲み込ませようと誘導していた。


 あの“力”は驚異的だ。

 だが一方で、一切の制御が効かない“暴走状態”に陥れば、ニンバムは魔法の類を一切使えなくなる。

 ただの力技しか行使できない二人組など、イシスにとっては脅威ですらない。


 マウマウがうずくまったまま、口元から大量に吐血する。

 だがどんな痛みが肉体を貫こうとも、彼女は声を振り絞り続けた。


「ニンバム、しっかり……自分を……自分を――捨てちゃあだめ」


 その訴えもむなしく、ニンバムの肉体が肥大化していく。

 右腕が太さを増し、イシスのそれと同様に魔力が結晶体となり、角のように表皮を覆った。


 歯を食いしばり、汗だくで彼を見つめるマウマウ。

 力なく変貌するその姿に、薄ら笑いを浮かべるイシス。


 二人の目の前で、ニンバムは変化した自身の手を見つめ、そして――唸った。


「この力なら……あの姿なら――あなたに、勝てるかもしれない。一矢……報えるかもしれない――」


 みきりと、肉が膨張する音が響いた。

 かすみ、赤く染まっていく視界の中で、ニンバムは視線を持ち上げる。


 すぐ目の前に、イシスがいた。

 強大な魔力そのものとなり、入れ物の肉体を操りこちらを見下ろす、巨悪がそこにいた。


 彼女の姿に、どうしようもない“破壊衝動”が沸き上がってくる。

 目の前の全てを壊し、潰し、奪いたいという怒りにも似た感情が、細胞の隅々までを満たすのが分かった。


 “怪物”へと成り代わろうとする視界の中に、床に倒れた血まみれの彼女が見える。

 眼球を動かすだけでもひどく苦しかったが、それでも必死に、ゆっくりとニンバムは彼女を見つめた。


 その声はもう、届かない。

 遠くで倒れている彼女が、何を言っているのかは分からなかった。


 だが、その痛々しい姿の中に、まだ決して折れていない強い眼差しがある。

 どれだけ刻まれようが、潰されようが、まるで退くことなど考えていない無骨な“気高さ”が見えた。


 その姿だけで――ニンバムには十分だった。


「何を使ってでも……あなたを止める。僕の全てを使って、必ず――」


 また一つ、イシスが薄ら笑いを浮かべた。

 ニンバムは再び前を見据え、変貌した己の腕を、もう一方の手で掴む。


 牙を剥き、“山羊やぎ”があらん限りの力を振り絞って吼えた。


「けれど――こんなのは違う!!」


 マウマウ、そしてイシスが目を見開くのは同時だった。

 ニンバムは掌から、自身の肉体に向かって凄まじい“魔力マナ”を流し込む。


 生み出された“電流”が、一瞬で全身を包んだ。

 閃光が部屋の中を染め、瞬く間にニンバムの体を貫き、焼きつくしていった。


 予想だにしない姿に、さしもの“魔女”も身動き一つとれない。

 ただ一人、マウマウだけはその稲光を前にして、なおも彼の名を叫び続ける。


 苦しみはそのまま、絶叫となってニンバムの喉元から放たれた。

 自らが生んだ雷に、白い体が何度も痙攣し、痛々しいほどに跳ねる。


 しかし、そのまさかの一手が、ニンバムの体に湧き上がろうとしていた“呪い”を押し込んでいく。

 暴走しようとしていた力は、別の力をぶつけられたことで勢いを削がれ、再び肉体の奥底へと追いやられていった。


 肉体の肥大化が止まり、生み出された魔力の結晶もボロボロに砕ける。

 稲妻が止むと、そこには全身から白煙を立ち上らせ、至る箇所が黒焦げになった痛々しい男の姿があった。


 肉が焼けるおぞましい臭いに、イシスが顔を歪める。

 だがそれでもなお、片膝をついたまま、“賢人”は前を向いた。


 ぼろぼろになりながら、それでも堂々と戻ってきた彼が告げる。


「見た目は確かに、変わってしまった……けれど……それでも僕は、“僕”としてあなたと戦う。ここまで歩いてきた、“人間”としてあなたを倒す――そう、決めたんだ!!」


 離れた位置に愛用の杖が転がっていた。

 だがもはやニンバムは、それを拾おうともしない。


 切り刻まれ、穿たれ、あげくは自身の魔力で焼かれた身、一つで立ち向かう。

 その無謀極まりない姿が、唖然として見ていた“彼女”の心を揺さぶり、奮い立たせた。


 ニンバムに呼応するように、マウマウが立つ。

 一切の劣勢に、まるで興味がないかのような強く、透き通った眼差しと共に。


 どれだけ追いやってもまるで懲りない“獣”達を前に、イシスは大きなため息をついた。

 だがその顔には、今までになかった深く、激しい感情の色が覗く。


 女の姿をかたどる像が――“氷の魔女”が表情を歪める。

 自身に歯向かい続ける外敵二匹を前に、“魔女”はどこまでも暗い漆黒の殺意に歯噛みしていた。

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