第16話 灯火は消えず
目を開いてみたが、まだ視界はどこかぼやけていた。
だが、うっすらと浮かんでくる“少女”の顔に、その視線が釘付けになる。
わけも分からないまま呆けていると、目の前の少女がはっと息をのむのが分かった。
「あっ――気がついた!!」
彼女のか細い声に弾かれるように、急に目の焦点が戻ってくる。
仰向けになったまま、それでも“彼”は即座に様々な情報を高速で汲み取っていった。
全身を覆っていた激痛は、名残こそあるものの随分と和らいでいる。
ゆっくりと力を込めると、指、腕、足は辛うじて動かすことができた。
首を動かし、正面に自身を覗き込む少女・シエロを据える。
痛みを押し、何度か大きく深呼吸した後、彼――ニンバムは彼女に問いかけた。
「ここは……僕は一体――」
「ああ、無理しないでっ。手当ては済んでるけど、重傷なんだから!」
なぜ彼女がここにいるのか、自分はいったいどうなったのか。
様々な疑問がニンバムの脳裏に湧き上がったが、シエロは構わず振り返り、声を上げた。
「
少女の呼びかけに応じるように、部屋の隅で石造りのすりこぎを擦っていた老婆が歩み寄ってくる。
ニンバムはなんとか上体を起こし、視線を持ち上げた。
全身、至る所に包帯が巻かれており、腕や指に添え木も加えられている。
その下には薬草や塗り薬が幾重にも仕込まれ、傷口を丁寧に塞いでくれていた。
自身の体に施された“応急措置”を眺めるニンバムに、老婆は――狩人の集落を収める“長”が微笑む。
「おお、良かった。お体の具合はいかがですかな? 一応、狩人達が用いる薬を施してみたのですが……」
「あなた方が、これを? えっと……ありがとう、ございます。万全――とはいきませんが、それでもかなり楽になりました」
その返答を受け、老婆が笑い、そしてシエロもどこか胸を撫で下ろしたようだ。
ニンバムはいまいち状況が理解できず、素早く視線を走らせた。
そこはどうやら、狩人らの住居の中らしい。
どういうわけか気を絶したはずの自分を、誰かがここまで運んでくれたようだ。
混乱したままのニンバムに、老婆は煎じていた“薬茶”を差し出してくれる。
かすかに湯気が立つそれを、彼女は「どうぞ」と手渡してきた。
軽く会釈し、冷ましながら口に含む。
だが、口内に広がる鮮烈な苦味に、思わず目を見開いてしまった。
「ん――んんんんっ!?」
なんとか苦味に耐え、それでも飲み干す。
筋肉がずきりといたんだが、胃の奥がほうと暖かくなり、全身の痛みがまた一つ和らいだようだった。
独特の味にせき込むニンバムを見て、またも老婆は笑う。
「本当に良かったです。ここに運び込まれた時は、それこそ瀕死の状態でしたから、もう手遅れかと思っていたのです」
「運び込まれた――あなた達が、僕を?」
「ええ。正確には、この子達が見つけてくれたのです」
老婆に
革で出来た厚手の狩猟装具を身に着けた彼女は、まだどこか心配そうに眉をひそめている。
「びっくりしたよ……薬草を補充するために遠出してたら、物凄い“雄叫び”が聞こえたんだ。また、“
当時の状況を思い出しながら、少女はゆっくりとそれを伝えてくれた。
おぼろげに状況が飲み込めてきたニンバムだったが、部屋を区切るように垂らされた麻布の奥から、これまた見覚えのある狩人の老人・ダビィが姿を現す。
禿げ頭をかきながら、彼はニンバムに「よう」と笑ってみせた。
「よう、兄ちゃん。その様子だと、山は越えたみてえだな。あれだけの大怪我で、よくもったもんだよ」
「あ、あなた方が、僕を?」
「おうよ。シエロと“お前さん達”を見つけた時は、肝が冷えたぜ。あの様子だと、洞窟の奥から自力で這い出てきたみたいだな? しっかりと、血の跡が続いてたぜ」
思わずニンバムは自身の手を見つめ、「そんなことが」と呟いてしまう。
一度目を閉じ、暗闇の中で必死に記憶をたどった。
あの時――自身の体が再度、“暴走”をはじめ、視界が真紅に染まった。
肉体の中でおぞましいまでの“破壊衝動”が暴れる中、それでも必死にニンバムは自身を繋ぎ留め続けたのだ。
握りしめた拳を、衝動に突き動かされるまま、あらん限りの力で振りぬいた。
その先端に伝わってきた、あの“感触”――その正体を察し、思わず目を見開く。
ニンバムはすんでの所で、拳の軌道を変えたのだ。
そして目の前を阻む“氷壁”を砕き割り、その奥へと最後の力を振り絞って歩みを進めた。
そう、他ならぬ“彼女”と共に――そこまで考え、ニンバムは慌てて顔を上げる。
「そうだ、彼女は……マウマウさんは!?」
その一言で、狩人達の表情が明らかに曇った。
シエロのうろたえる視線をダビィが受け止め、「ふむ」と
ニンバムもまた不穏な気配を感じる中、ダビィは自身の背後にあった間仕切りの布を開いた見せた。
そこにはニンバム同様、全身に応急措置を施された“彼女”が寝かされている。
至る箇所に包帯を巻かれ、心なしかニンバムより手厚い治療を受けているようだ。
目を閉じたままの彼女――マウマウに、ニンバムは思わず体を寄せて覗き込んでしまった。
黙したままの彼女を見ながら、ダビィが告げる。
「ひでえもんだよ。全身、くまなく“重症”だ。骨折、裂傷、擦過傷、打撲――こんなこと言っちゃあなんだが、生きてるのが不思議なくらいだよ」
彼女の症状に、ニンバムは息をのんでしまう。
辛うじてマウマウは呼吸をしているが、その音色はなんとも弱々しい。
かすれるような息の音を聞きながら、長である老婆もどこか悲しそうに目を伏せる。
「その様子だと、おそらくお二人はあの“魔女”に会われたのでしょう。体に残された傷からは、どれも強力な“魔力”の痕跡が見受けられました。あなたの肉体はもちろんですが、なにより彼女の場合は深刻な状態です」
「“魔力”ですって……そ、そんな……」
「あの“氷の城”は、あの“魔女”が作り上げた物。おそらくですが、そこに立っているだけでも空間に滞留した“マナ”がじわじわと肉体へと浸透していったのでしょう。魔法のコントロールに長けたあなたはあまり影響を受けていませんが、彼女の場合は肉体の奥底で未だなお、その“マナ”が魂を
その様子だと、長である老婆は多少なりとも“魔法”の知識やノウハウを会得しているのだろう。
事実を告げられたニンバムは、マウマウを見つめたまま言葉を失ってしまった。
ニンバムとて、そういう概念は知り得ていた。
魔法によって作り出された物体は、それ自体が“マナ”によって形を維持し、顕現し続けている。
ゆえにその近くにいるだけでも、知らず知らずのうちに肉体が“マナ”の影響を受けてしまうのだ。
言わばそれは、魔法学における基礎中の基礎ともいえる内容だった。
だが、二人が突入した“氷の城”は、その滞留する“マナ”の濃度・総量自体が桁違いだったのである。
そんな場所で激しく動き回り、致命傷を負い、体力を消耗したのなら――知らず知らずのうちに、ニンバムは己が拳を握りしめていた。
分かり切っていたはずの基本を、まるでないがしろにした自分を酷く恥じる。
怨敵を前に、ニンバムは正常な思考ができていなかったのだ。
自分のみならず、すぐ隣に“魔法”のノウハウを持たない彼女が――マウマウがいたことを、まるで考慮できていなかった。
そのあまりにも浅はかな行動の結果が、目の前に横たわる“彼女”なのだろう。
こうしている間も、シエロはマウマウの包帯の下の薬草を取り換え、汚れた傷口を布で洗っていた。
少女の目の端に、きらりと輝く悲しい雫が浮かぶ。
「マウマウが、凄い強い人だってことは知ってる。けど……だけど……あれからどんどん、呼吸が弱くなってるのが分かる。ありったけの薬を試してみたけど……それでも、もう――」
狩人として鍛え上げられた少女の耳は、その変化を如実に捉えてしまうのだろう。
横たわる獣人の呼吸音の変化が、彼女の命の灯火の強さを告げてしまう。
黙したまま眠るマウマウに残された時間は、そう多くはない。
その重々しい現実に、誰しもが口を閉じ、うつむく。
“
すぐ隣に置かれた彼女の愛用品――“スイッチ”を入れるための鉄兜を、ニンバムは両の手で持ち上げた。
数多の戦場を潜り抜けたそれには、至る箇所に擦り切れと欠け、へこみが見える。
焚き火の茜色を鈍く反射するそれに、洞窟で見せた彼女のあの真剣なまなざしが重なった。
諦めようとするニンバムに、それでもマウマウは真正面から
人ならざる姿になった自身に、混じりっけなしの感情を叩きつけながら。
『あんたは一人の人間――ニンバムっていう、賢くて物知りな魔法使いでしょう?』
ニンバムとて、マウマウという女性の全てを知らない。
かつて彼女が“魔女”に故郷を奪われたことも、伝説的な格闘士の元で血の滲む鍛錬を続けてきたことも、つい先日聞いたばかりだ。
まだまだ二人は、互いを良く知る仲とは言い難い。
だがそれでも――どんなに短い間でも、マウマウはニンバムと共に歩み、同じ相手に立ち向かってくれた。
身を
このまま何もしなければ、彼女の命は終わる。
そんな当たり前の事実が、ニンバムの鼓動を強く、激しく打ち付けた。
ぎりりと奥歯を噛みしめたまま、ニンバムはマウマウの全身を見渡す。
彼女が負った傷を微かに触れて確かめた後、視線をそらさずに狩人達に告げた。
「皆さん、ありがとうございます。僕――いや、僕らみたいな
彼の背中を、シエロ、ダビィ、老婆が一斉に見つめる。
焚き火が揺れ、一同の影が何度も壁や天井で揺れた。
深呼吸した後、ニンバムは前を向いたまま続ける。
「大変、恐縮なんですが……もう少しだけ、僕の“わがまま”を聞いていただけませんか?」
予想だにしない一言に、狩人らが明らかに動揺した。
シエロとダビィが互いの顔を見合わせる中、初めてニンバムが振り返る。
その瞳に、今まで失われていた明らかな“強さ”が、焚き火の輝きと共に揺れていた。
「これから僕が言うものを、至急、集めてほしいんです。この地――リーリアになら、必ずあるはずなんです。できるだけ大量に、急いで!」
思いがけない彼の“依頼”に、狩人達は
だが、ただならぬ気迫を纏ったニンバムの姿に誰一人、その言葉が意味するところを聞き返すことができない。
たじろぐ狩人達にかまうことなく、ニンバムは脳内に思い浮かべた“品々”を告げる。
その用途はさっぱりだが、それでも“
彼が放つ力強い意志の“光”が、自然とその場にいる全員を動かしていった。
狩人らが腰を上げる中、ニンバムは再度、目の前で横たわる“彼女”を見つめる。
相も変わらず、マウマウは目を覚まさない。
その痛々しい姿を前に、ニンバムは唇を噛みしめながら決意する。
彼女はあの時、確かに自分に言ったのだ。
私は私の手の届く範囲なら、誰だって、絶対に救ってみせる――と。
ニンバムのすぐ目の前に、マウマウはいる。
冷たく暗い洞窟ではなく、粗末だが風をしのぎ、わずかな灯火のぬくもりが宿る小屋に帰ってきた。
そんな手の届くところにいる彼女を前に、ニンバムは決意を固める。
絶対に救ってみせる――かつてマウマウが放った熱い意志が、ニンバムの心の奥底に燃え移り、ごおごおと勢いを増して暴れ始めていた。
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