第15話 地底の咆哮

 口や鼻にねじ込まれたチューブに、腐肉をベースとした得体の知れない“混ぜ物”が流れ込んでくる。

 その不快極まりない感触、味、温度が肉体のうちに零れ落ちるたび、拒絶反応で全身がひどく痛んだ。


 あまりの苦しみから、培養液の中でひたすらに暴れ、もがき、苦しむ。

 自身を包む巨大な“ガラス管”を何度も叩き、外へと脱出しようとあがいた。


 だが、“子供”のか弱い腕で破壊できるほど、ガラスの壁――“試験管”の防壁はヤワではない。

 ごうん、ごうんと鈍い音が響くが、まるで何一つ状況は好転しなかった。


 流れ落ちた涙も、汗も、鼻水も、唾液も。

 その一切が緑に汚れた培養液に混ざり、一体化していく。

 ぐわんぐわんと歪むその中心に、やはり表情一つ変えない“父”の姿があった。


 彼が自分に――“息子”の存在に興味などないことは、知っていた。

 普段の言葉遣いや所作、会話の中で見え隠れするその無機質な色合いが、嫌でも幼い自分に理解させる。


 父は自分を、愛してなどいないのだ、と。


 それでも心のどこかで、信じていた。

 どれだけ関心がなくとも、どれだけ彼が“知識欲”に憑りつかれていようとも、最後の最後に“血縁”という概念が勝るのだ、と。


 そんな物は、ただの幻想だったと知る。

 メキメキと肉がうごめき、肥大化を始めた。

 “息子”の肉体に現れた明確な変化に、初めて“父”はこちらに視線を向ける。


 愛など、やはりこれっぽっちもない。

 あるのはただただ“被検体”を観察する、打算的で揺らがない、どこまでも無色透明な瞳だった。


 ごうん、ごうん、ごうん――動かせるだけ体を動かし、ガラスを叩く。

 試験管がどれだけ鳴動しようとも、外側に立つ彼は揺らがず、じっとこちらを覗きこんでいた。


 腐肉が口内を満たしても、なおも音にならない声で彼を呼んだ。

 人ではなくなっていく“息子”の姿を、“父”はなおも黙したまま、瞬き一つせずに見つめていた。




 ***




 ごうん――という鈍い音で、ようやく意識が覚醒した。

 目を開いたが、視界は黒に染まったままだ。

 光のない漆黒の中に、やはりまた一つ、ごうんという音が響く。


 ニンバムは仰向けに横たわったまま、全身を走る激痛に唸ってしまう。

 だが、その痛烈な感覚が改めて、自身が“生きている”ということを実感させてくれた。


 ゆっくり、慎重に肉体を起こす。

 首を動かすと、先程から聞こえている奇妙な音の正体が分かった。


 少し離れた位置で、“彼女”が拳を振り上げ、迷うことなく壁に叩きつけていた。

 目の前に立ちはだかる巨大な“氷”の壁を壊そうと、必死に足掻いている。


 また一撃、彼女が――マウマウが拳を握りしめ、突き刺す。

 鈍い音と共に空間が揺れ、氷の壁が少しだけ砕け、がれ落ちた。


 しかし、もう一撃を放とうとして、マウマウはがくりと膝をついてしまう。

 彼女は氷壁にもたれ、ぜえぜえと苦しそうに呼吸を繰り返していた。

 そんな彼女の姿に、ニンバムは声を上げてしまう。


「マウマウさん……一体、これは――」


 振り絞った彼の言葉に、マウマウが気付く。

 彼女は壁にもたれて座ったまま、それでも手を上げて笑った。


「おぉ、起きたんだ。おはよ、ニンバム」


 ニンバムの目がようやく暗闇に慣れてくる。

 明るく笑う彼女の姿を視界にとらえ、思わず絶句してしまった。


 マウマウの体はボロボロで、全身の至る所から出血している。

 切り傷や裂傷はもちろん、肉が腫れ上がり痛々しく変色していた。

 

 特に壁に打ち付けていた右拳の状態は酷い。

 爪が割れ、薬指に至っては完全にへし折れてしまっている。

 

 片目がうまく開かない状態で、それでも笑うマウマウの姿に、ニンバムは震えを押し殺し問いかけた。


「その姿は、一体……なにが……あったんですか? あいつは――イシスはいったい?」

「その様子じゃあ、覚えてないんだねぇ。さあて、何から説明すればいいんだろっか」


 あっけらかんと言ってはいるが、やはりマウマウの呼吸は不自然に荒い。

 おそらく、内臓もかなり損傷しているのだろう。


 満身創痍でありながら、それでもマウマウはニンバムに状況を説明してくれた。

 イシスとの激闘から今に至るまで、その起こった事を全て、包み隠さず伝える。


 告げられた事実に、ニンバムは思わず自身の肉体を見つめた。

 身に纏っていたはずのローブはずたずたに引き裂かれ、血や泥にまみれた上半身があらわになっている。


 聡明が故に、数少ない説明でもニンバムは自身の身に起こった事を――そして、自身が行ってしまったことの全容を把握し、歯噛みした。


「そんなことが……じゃあ僕は――」

「正直、私ももうダメかと思ったよ。無我夢中で、とにかく谷に落ちたニンバムを抱えて、必死に足掻いたんだ。何度も崖を蹴り飛ばして、どうにかこうにか生きたまま、谷底まで辿り着いたってところだよ」


 ニンバムと共に谷底に落下したマウマウは、あろうことか空中でニンバムの体を抱きかかえ、崖の壁面を何度も叩くことで衝撃と速度を緩和させ、なんとか無事に谷底に到達したのだ。


 否――どれだけ彼女の体術が卓越していたとしても、さすがに“無事”というのは無理があったのだろう。

 岸壁を叩いた両手足はボロボロに削られ、落下した際の一撃は骨と内臓を損傷させた。

 その状態でもなお、彼女は谷底から脱出するため、ニンバムを抱えてここまで進んできたのである。


 絶句したままのニンバムに、なおもマウマウは力なく笑いながら告げた。


「でも、参っちゃった。なにせこの谷、天然の迷路みたいになってて、抜け道がないんだ。上に戻るための道が、どこにも見当たらなかったんだよ。何とか私の“鼻”を使って空気の流れを辿ったは良いものの、最後の最後に――“こいつ”が邪魔しててさ」


 マウマウは自身がもたれかかっている巨大な“氷壁”を拳で叩いた。

 ごうんという音が響き、またも空間が揺れる。


 洞窟をさえぎるように生み出された、天然の障壁。

 おそらくそれを超えた先に、この崖の上へと続く道があるのだろう。


 状況を理解してもなお、やはりニンバムは言葉を絞り出せない。

 地面に伏せたまま、歯噛みし、どこか悔しそうにうつむいている。


 そんな彼の心中を察したかのように、マウマウは優しく告げた。


「色々、あいつから聞いたよ。ニンバムの事――それに、ニンバムのお父さんのことも」

「父を……ヴァドスのことを?」

「うん。落ちる間際、あの“魔女”が言ってたんだ。ニンバム、前に言ってたよね? 昔、ヴァドス=アーズレンって悪い魔法使いがいたって。ニンバムはそのヴァドスって人の、息子だったんだね」


 すぐにニンバムは答えない。

 再び顔を伏せ、そして両拳を痛いほどに握り、震えながら答える。


「あなたが聞いた通りです。僕はあの男――大罪人・ヴァドスの血を分けた、一人息子なんです。隠していて、ごめんなさい」

「謝る必要なんてないよぉ。まぁ、もちろん、ちょっとばかしびっくりしたけどね」


 血にまみれ、それでも笑うマウマウの姿を、ニンバムは悲しげな瞳で見つめた。

 マウマウはわざと視線を泳がせながら、続ける。


「そっか。じゃあ、あの時言ってた、研究材料にされた“家族”っていうのは、ニンバム自身のことだったんだね?」

「はい……父は僕を使って、数々の“秘術”を試したんです。そしてその中で、生み出した……人を――“人ならざる者”に変える、術式を」


 その事実を聞いてもなお、マウマウの表情は揺らがない。

 ただただ笑ったまま、少しだけ目を細める。


「そうだったんだね。おかしいなって思ってたんだ。ニンバム、なんだか普通の“獣人”とは違う匂いがしたんだよ。そりゃあ、そっかぁ。ニンバムは“獣人”じゃあなくって、元々は普通の――“人間”だったんだね」


 黙ったまま、地に伏せた賢人は大きく頷く。

 “山羊やぎ”の姿に変貌させられた大罪人の息子は、どこか悔しそうに思いを吐き出した。


「僕は……父がどこかに残した、“秘術”を解除するための術式を探して、旅をしていたんです。この姿を元に戻す――そうすれば、僕はあの“大罪人”の呪縛から、逃れられる気がしたんです。けれど僕は、何一つあの“魔女”から取り返せなかった。あげく、あなたまで巻き添えに……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」


 これこそが、ニンバム=アーズレンという存在に刻まれた、あまりにもおぞましい“秘術”の結果だった。

 凄まじい魔力を体内に生み出し、あまつさえそれを肥大化させることで肉体を増強させ、人ならざる膂力を発揮させる。

 人を“人でない怪物”に変えるという禁忌の術式を、事もあろうにヴァドスという男は、自身の血を分けた息子の肉体で試していたのだ。


 ニンバムの肉体に起こった変化も、彼がどうして我を忘れ暴れまわったのかも、マウマウにとってはどれも合点がいった。

 だからこそ彼女は咎めたりせず、ふぅとため息をついた後に続ける。


「だから、謝る必要なんてないよぉ。それに、色々と隠してたのは私も一緒だからさ。私なんて、みっともないもんだよ。家族の敵討ち――“復讐”のために、ここまできたなんてね」


 はっと息をのみ、顔を上げるニンバム。

 マウマウは洞窟の暗闇を見つめたまま、語る。


「私、どこにでもいる、平凡な家庭の娘だったんだ。でもある日、一瞬で街が真っ白になった。あいつのせいで全てが“氷”に変えられて、私の日常は消え去ったの。私が生き残れたのは偶然――ただ運が良かったから、今こうして、この場にいるだけなんだ」


 彼女の目には、かつて見た“地獄”が蘇っているのだろう。


 理不尽に、無作法に奪われた日常の、その白一色の景色。

 地域柄、降るはずのない“雪”が舞う生まれ故郷で、一瞬にして氷像となり砕け散った家族や、街の住人達。


 幼い彼女には、何が起こっているかを理解する術はなかった。

 ただ覚えているのは、遥か頭上――氷舞うその空に悠然と浮かぶ、あの美しくも妖しい魔性の姿だ。


「感情を、この日まで押し殺してきた。あいつと出会ったら、今まで我慢してきた分、全てを叩き込んで、終わりにするつもりだったんだ。でも、私だって敵いもしなかった。今日まで鍛錬してきたって言うのに、その何一つ通じないまま、こんな有様だよ」


 今の状況を皮肉って笑うマウマウに、ニンバムは返すことができない。

 ニンバム自身がそうだったように、目の前で笑う彼女にも確かな“理由”があると分かったからだ。


 “復讐”と“奪還”――二人の獣人は、それぞれの“呪い”を解くため、この地にやってきたのだろう。


 踏みにじられた過去を清算するために。

 かたや、捻じ曲げられた人としての在り方を取り戻すために。


 そうしなければきっと、マウマウとニンバムはどこへも行けなかったのだ。

 あの“氷の魔女”と会い、それぞれが決着をつけない限り、彼らは先へ進むことができなかったのである。


 力なくうなだれるニンバムの前でマウマウは休憩を終え、「おっし」と意気込んで立ち上がる。

 ふらふらと壁に手をつく彼女に、ニンバムは問いかけた。


「マウマウさん……一体、なにを……」

「決まってるじゃんか。この壁をぶっ壊して、ここから出るんだ。もう一度――“あいつ”の所に行くためにね」


 まさかの回答に、マウマウは目を見開く。

 だが躊躇などすることなく、マウマウは拳を握りしめ、それを氷壁に叩き込んだ。


 先程よりも響いた音が小さい。

 マウマウの肉体から、力が抜け落ちていくのが手に取るように分かる。


 それでも必死に構えを作るマウマウに、ニンバムはなんとか体を起こしながら問いかけた。


「もう一度って……ま、まさか……まだ、あの“氷の魔女”と戦うつもりですか?」

「あたりまえじゃんか。こうして追い返されちゃったけど、それで『はい、さよなら』って言えるほど、こっちもお利口さんじゃあないんだよ」


 もう一撃、今度は蹴り込んだが、足元がふらついたせいで転んでしまう。

 マウマウは全身に走る激痛に顔を歪めながら、それでも不敵な笑みを取り戻したなおも立つ。


 その雄々しい姿が、もはやニンバムには理解できない。

 全力を出し、戦った。

 その結果、まるで通用することなく見るも無残に蹴散らされ、谷底に蹴落とされたのだ。


 血を流し、骨を折り、肉が潰れ――そんな状態でもまだ、目の前の彼女は諦めてなどいない。

 その底抜けの前向きな視線の理由が、ニンバムには分からないのだ。


 一撃、マウマウの拳が氷壁を叩いた瞬間、“ぺきり”という嫌な音が響いた。

 血の飛沫が透き通った水晶体を赤く染め、激痛にマウマウの悲痛な声が上がる。


 衝撃に耐え切れず、中指が折れたらしい。

 痛々しく曲がったそれを、マウマウは上着のすそを破り、巻き付けることで無理矢理に固定して見せた。


 まだやる気だ――“ねずみ”の獣人が見せる破天荒極まりない推進力に、ニンバムはたまらず声を上げる。


「そんな……それ以上やったら、あなたの体がもたない! いけません、止め――」


 反射的に手を伸ばすも、ニンバムの肉体もまた限界だった。

 少し腕を持ち上げただけでも激痛が走り、その痛みに再び地に伏せ、歯を食いしばってしまう。


 苦しむ賢人を前に、それでもマウマウは笑った。


「ニンバムはそこで休んでてよ。もう少しなんだ。隙間の向こうに、陽の光が見えてる。ここを抜ければ、外に出られそうなんだよ。一旦休んで、そしてまた、あの“魔女”にリベンジしないとさ」


 また一撃、鋭く突き刺さった拳が氷壁を削る。

 汗と血がばっと散り、一滴がニンバムの頬にぱたりと落ちた。


 その生暖かさが肌に染み込み、底知れない喪失感を植え付ける。

 ニンバムはただわなわなと震えながら、己の無力さを嘆く。


「自分なりに必死に、やってきたんです……父が――ヴァドスが生み出した負の遺産を消すため、色々な場所を旅して、様々なものと出会って、戦って――そうして一つ一つ、彼が生み出してしまった邪悪な遺物を破壊してきた……」


 賢人が語るこれまでの道程を、マウマウは黙ったまま聞いていた。

 こうしている間にも、一撃、また一撃と氷の壁を砕いていく。


「ほとんどの遺物を破壊したその後、不意に気付いたんです。彼が生み出した術式や兵器をいくら破壊しても、それでは不完全だと。なぜならここに――“僕”という“呪い”がいつまでも残っているのだから――」


 マウマウは一撃、壁に蹴りを叩きこんだ後、ちらりとニンバムを見る。

 “山羊”は地に伏せ、肩を震わしながら語った。


「色々な解呪法を試しました……ありとあらゆる文献を漁り、知識人を頼り――けれどやはり、駄目でした。どんな方法を使っても、この体に宿った“呪い”……人ならざる姿と、植え付けられた“力”は消えてくれなかった」

「力――あの時見せた、“姿”のこと?」

「ええ……父は僕の体に、“魔物”の肉体から抽出した細胞を流し込んだんです。けれどそれは所詮しょせん、不完全な術式でした。“力”を手に入れられたとしてもそれに意識まで支配され、コントロールすることすらできない。だからこそ僕は――“氷の魔女”だけでなく、あなたまで襲ってしまった……本当に、ごめんなさい……」


 マウマウは一旦、構えを解いた。

 彼女の中でもどこか、かつて見たニンバムのあの“異形”の姿に納得してしまう。

 あれこそ、ニンバムの父・ヴァドスが施した、“呪い”そのものなのだ。

 

 マウマウは再び、活路を切り開くために立ちはだかる氷壁へと向き直った。

 もう彼女にも、あまり時間は残されていない。

 流れ落ちた血と消耗した体力のせいで、すでに視界もかすみ始めていた。


 一発、二発と拳を振るうマウマウを前に、ニンバムはやはり沈み切ったまま、体を震わせ続ける。

 涙すら浮かべ、うずくまったまま必死に思いを振り絞っていく。


 まるで何かに失敗した、純粋な“子供”のように。

 痛々しいまでに拳を握り、熱い吐息と共に思いの丈を吐き出した。


「色々な人に、忌み嫌われて生きてきました。変わりはてた姿以上に、“大罪人”の息子であるということで迫害を受けて……それが、しかたのないことだと割り切りたかった。けれど、どこか心の中でこうも思ったんです。もし可能性があるなら、“真っ当な人間”に戻りたい、って」


 ニンバムの言葉に耳を傾けながら、それでもマウマウは壁を殴る。

 ぼろぼろと氷の破片が足元に転がり、マウマウが流した血だまりの上を跳ねた。


「けれど、結局僕はあいつ――“氷の魔女”を相手に、手も足も出なかった。挙句、自分の力を制御できず、暴走して一緒についてきてくれたあなたまで命の危険に晒してしまった。僕は何一つ変えれなかった。僕は周りの人間が言うように、きっと――どうしようもない、“化物”なんです」


 その言葉で、マウマウが拳を止める。

 彼女はゆっくりと両腕を下ろし、ニンバムへと向き直った。


 いつの間にか、ニンバムは泣いていた。

 己の無力と、過去から続く“呪い”にただ心を打ち震わせ、大粒の涙をこぼす。


 そんな彼女にマウマウは、ゆっくりと歩み寄っていった。


「刺し違えてでも、あの“魔女”を倒せたらって思ってたんです。せめてこれ以上、父の遺産を使って彼女が横暴を働かないように……けれど、それすらできなかった。人の姿を捨てて、“化物”になっても結局僕は――父が言っていたように、“出来損ない”なんです」


 ニンバムの中にある確かな心が、折れようとしていた。

 今まで必死に繋ぎ止めてきた自分自身が、ボロボロと崩れ、無くなっていくのが分かる。


 父のことを否定したかった。

 そして、彼が過去に告げた言葉の全てを、拭い去りたかった。


 だがそれでも、地の底に落ち、暗闇でずたずたになったまま身動きの取れない自分が、ひどく滑稽で仕方がない。

 自暴自棄になりながら、湧き上がる悔しさに突き動かされ、なおもニンバムは告げる。


「僕のことなんて、放っておいてください。マウマウさん……あなただけでも、生き延びてほしい。こんな“化物”のために、命を張ることなんてきっと無――」

 

 優しさから、吐き出したはずの言葉だった。

 だが、突如ニンバムの言葉をさえぎり、マウマウが首を掴んで引きずり上げる。

 突然の圧と痛みに目を見開くと、至近距離に彼女の顔があった。


 今まで決して見せたことのない、はっきりとした“怒り”を浮かべ、マウマウが吼える。


「勝手に終わらせるな――馬鹿!!」


 間近で叩きつけられた言葉が、肉体をきしませる。

 ニンバムは涙こそ浮かべていたが、それでも憤怒に染まったマウマウの顔を、しっかりと見据えていた。


 驚くニンバムに、なおもマウマウが真正面から言い放つ。


「あんたの過去も、思いも、良く分かったよ。きっと私が考えてるよりずっと辛くて、悲しくて、痛々しい日々だったんだろうさ。けれど、だからって――周りがさげすんだら、言われた通り黙ったまま、“化物”になって終わるつもり?」


 強く、はっきりとした口調だった。

 そこに今までのようなおどけた波長も、あっけらかんとした楽観的な雰囲気もまるでない。

 マウマウは今、心からニンバムに対し怒っているのだ。


「見た目が違おうが、大暴れしようが、あんたは一人の人間――ニンバムっていう、賢くて物知りな魔法使いでしょう? だからあの時、私はあんたを助けた。あの城まで一緒に来てくれたあんただから、最後まで連れ帰るって決めたんだ。それを勝手に――終わらせるつもりなの?」


 呼吸がうまくできずとも、喉に不快な痛みが伝わろうとも、ニンバムはまるでそれを振りほどけない。

 自身を掴み上げるマウマウの言葉に、もはや肉体のみならず心までもが震えるのをやめた。


「私はもう、私の目の前で誰かが壊れる姿なんて見たくない。何もできないまま、ただいたずらに“あいつ”に奪われて終わりなんて、死んでもごめんだ! 私は私の手の届く範囲なら、誰だって、絶対に救ってみせる!!」


 拘束を解かれてもなお、ニンバムは動けずにいた。

 ごつごつした地面にへたり込んだまま、こちらを見下ろすマウマウのその姿を見つめてしまう。


 打たれ、削られ、砕かれ――幾重にも傷と痛みを重ねられてもなお、目の前に立つ“ねずみ”が持つ気高さは、まるで揺らいでいない。

 仄暗い洞穴のその中に立つ彼女は、満身創痍でありながらなおもぶれず、一切退く気など抱いていない。


 その眩しさに、賢人の肉体の奥底で脈打つ鼓動が、高なった。

 マウマウはお構いなしに振り返り、再び氷壁を前に構える。


 物言わぬ氷壁目掛けて、ただひたすらに、歯を食いしばりながらマウマウは打ち込む。

 崩れ落ちそうになりながら、幾度となく走る激痛に耐え、必死に一撃を加え続ける。


 拳打が、蹴撃が、着実に無機質な壁を取り払っていく。

 やがてついに、彼女が砕いた穴の隙間から、一筋の光が差し込んだ。


 確実にこの壁の先に、洞穴の出口があるのだろう。

 わずかに差し込んだ希望の輝きが、マウマウとニンバムの姿をうっすらと照らし出す。


 だが、ここでマウマウの体力がついに底を尽きてしまう。

 呼吸がかすれ、リズムを失っていく。

 一歩を踏み出そうとしたが、足元がもつれて転んでしまった。


「マウマウさん!!」


 ニンバムのその声が、ぐわんぐわんと空間を飛び回り反響した。

 どれだけその音波がか細い肉体を叩こうとも、マウマウはまるで立ち上がることができず、再び氷壁にもたれかかってしまう。


 初めて“鼠”の顔に、悔し気な色が浮かんだ。


「くっそぉ……もっとしっかりと……スタミナつけておくんだったなぁ……鍛錬……不足だぁ……」


 崖から落下し、おびただしい量の打撲、骨折、出血を経てなお、ここまでやったのだ。

 十二分に化物じみた体力を発揮しながら、それでもなおマウマウの奮闘は、脱出経路を切り開くに至らない。


 ニンバムは地を這いながら、必死に顔を上げて前を見る。

 砕け落ちた氷壁から差し込む光が、ボロボロになって座るマウマウの姿をしっかりと映し出していた。


 死という暗く、もの悲しい存在の足音が、着実に近付いている。

 だというのに、なおも目の前に座る彼女は、笑みだけは捨てず前を見ていた。


 どれだけ阻まれようとも、どれほど跳ね返されようとも、この女性は“諦める”ということだけは選ぶつもりはないのだ。


 見惚れていたニンバムの鼓動が、高なる。

 それは激しさを増し、痛いほどに肉体の内側を押し上げ、叩いた。


「――ッ!? そんな……こんな……時に――」


 胸を押さえ、筋肉の上から鼓動を抑え込もうとするニンバム。

 しかし、彼の奮闘を跳ねのけ、肉体の内に刻まれた“呪い”が暴走を始めた。


 肉体が再び肥大化をはじめ、目の色が変わっていく。

 荒れ狂う“魔力”が具現化し、刺々しく隆起した爪や角を作り上げていった。


 まずい――この状況下で再びニンバムの力が暴走すれば、何が起こるのか分からない。

 狭い空間で暴れまわれば洞窟が崩れる可能性もある。

 そしてなにより、目の前にいる唯一の獣人――マウマウを再び襲ってしまう可能性すらあり得るだろう。


 歯を食いしばり、必死に耐えるニンバム。

 爪が皮膚を引き裂き、肉を抉るほどに自身を痛めつけ、奥底でうごめく“呪い”に立ち向かい続けた。


 だが非情にも、ニンバムの体はなおも肥大化していく。

 やがて、“氷の魔女”を前に暴れ狂った、あの巨大な“怪物”の姿でニンバムは立ち上がった。


 マウマウは座ったまま、力なくその巨体を見上げる。

 もはや腕一本、指一本、動かせることができない。

 この満身創痍の状態で、先程のように目の前で暴れる彼を避けることも、退けることもできそうになかった。


 諦めるつもりなどない。

 だがそれでも、どうにも動かない自分の肉体に、マウマウは力なくため息をついた。


 修練、怠けた“ツケ”だなぁ――そんな思いを最後に、ついにマウマウは気絶してしまう。


 がっくりとうなだれる彼女に、一歩、また一歩とニンバムは近付いていく。

 巨体が地面を踏み込むたびに、岩がえぐれ、谷底に走った迷宮のような洞窟が、何度もたわみ、揺れた。


 ニンバムは赤く染まり、歪んだ視界の中で確かにマウマウを見つめていた。

 思考を本能が責め立て、奪っていく。


 砕け、抉れ、貫け、引き裂け、穿て。

 ありとあらゆる破壊衝動が心臓の内側に宿り、“呪い”を血に乗せて全身へと駆け巡らせた。


 ゆっくりと拳を握り、持ち上げていくニンバム。

 意識のすぐそばに寄り添う“漆黒”の意思が、耳元で語り掛ける。


 殺せ――そんなシンプルで、真っすぐで、どこまでも邪悪な意思がニンバムを突き動かす。


 雄叫びを上げながら、ニンバムは拳を振り下ろす。

 岩のような塊が密閉した空気を突き破り、はしる。


 赤に染まるその視界の中心に、最後の最後まで“彼女”がいた。

 あっけらかんと笑い、どんな時も前向きで、苦難、困難を真っ向から受け止め、それでもなお笑う“彼女”が。


 たった数日でも、ほんの数刻でも、同じ目的に向かって歩いてくれた“彼女”を前に、ニンバムは吼える。

 その雄叫びを追うように、凄まじい衝撃音が洞窟内を駆け抜け、岩の群れを鳴動させた。


 ガラガラと瓦礫が崩れ落ちるその中で、最後の最後まで“怪物”は両の足で立ち、目の前の光景に唸り声をあげていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る