第13話 覚醒

 冷たかったはずの大広間の空気は、魔法によって生み出された炎により一気に熱を帯びていた。

 空中に漂う熱波がなおもぴりぴりと肌を焼く中、魔法使いは杖を突き立てたまま、なおも強い眼差しを“魔女”に向けている。


 空中に浮遊するイシスは、ニンバムから告げられた言葉にわざとらしく首をかしげた。


「ヴァドス=アーズレン、ねえ。その名前なら確かに、よぉく覚えてるわぁ。なにせ彼とは、魔法大学院以来の付き合いだものぉ。大学院はどいつもこいつも馬鹿ばっかりでつまらなかったけど、彼だけは別格だったわ。だから私達、意気投合しちゃってねぇ」


 嬉しそうに思い出語りをしつつ、イシスは自身のこめかみを指でとんとんと叩いて見せる。

 わざとらしく、自身の記憶を呼び覚まそうとしているようだった。


「けれど、私が彼から奪った“秘術”って、なんだったかしらぁ? 彼は色々と魅力的な術は生み出してたけど、それにしても奪っただなんて心外ねぇ。それじゃあまるで、私が“悪者”みたいじゃなあい?」


 けらけらと笑って見せる空中のイシスを見上げ、思わずマウマウが眉間にしわを寄せる。

 両の拳を痛いほどに握りしめ、歯を食いしばった。


 どの口が――かつて故郷を凍り付かせ、自身の家族を表情に変えた“かたき”に対し、彼女は今にも飛び掛かりそうだった。

 マウマウが再び鉄兜を持ち上げる中、ニンバムはなおも強く言い放つ。


 マウマウがそうであったように、彼がここまで携えてきた、確固たる“理由”を胸に。


「ヴァドスは間違いなく、世界が忌避する大罪人でした。彼が生み出した“秘術”はいずれもおぞましいものばかりで、人道を踏み外した禁呪の類として封印されてきたのです。けれどその中で、いくつかその要諦を奪われたものがある。そしてそれは――当時、彼の側にいた“友人”である、あなたの手に渡った。私はそう考えて、ここまで来ました」


 マウマウは思わず、魔女を睨みつける“山羊やぎ”の横顔を見つめる。

 ニンバムは感情こそ押さえ込んでいるが、それでも溢れ出す憤りを抑えきることができないようだ。


 だが一方で、まるでマウマウには理解できない。

 その大罪人・ヴァドスと目の前の魔女・イシス。

 そして、それらが扱っていた“秘術”とニンバムが、どう関係するのかがまるで見えてこない。


 困惑するマウマウの前で、なおもイシスはくすくすと笑う。


「“友人”なんて、考えすぎよぉ。彼と私はあくまで、互いを利用していただけ。それぞれが魔法使いとして高みに上るための、それだけの関係性だったわぁ」


 あっけらかんという彼女の言葉を、それでも二人はすんなりと信じてしまう。

 対峙している“氷の魔女”の姿を見ていれば、ヴァドスとの関係性は至極まっとうなものに思えたからだ。


 この目の前の女性が、誰かを信頼したり、誰かと共存することなどないのだろう。

 彼女にとっては自分以外が全て“道具”でしかなく、自身の理想こそが全てなのだから。


 二人の視線をものともせず、イシスはまたもわざとらしく悩んで見せる。


「“秘術”ねえ~。“屍人還しびとがえりの法”かしら? それとも、“飛天の魔陣”。もしかしたら、“重次元圧壊”かなぁ」


 あれやこれやと難しい単語が飛び出すが、あいにくマウマウにはそれらが何なのかさっぱりだ。

 だがここで、ニンバムはあえて深く切り込む。

 このわざとらしい無益な問答を終わらせるために。


「ヴァドスは――彼は悪人だが同時に、まぎれもない天才だった。そんな彼が大罪人として討ち取られる寸前に行った凶行……“家族”を犠牲にして生み出した、禁断の術式――それをあなたは、知っているはずだ」


 ニンバムの言葉の中で、“家族”という一点だけが力を帯びていたのを、マウマウも確かに感じ取った。

 そんな他愛のない一言が、確実にイシスの心中の何かを捉える。


 初めて一瞬だけ、イシスの表情から笑みが消えた。

 彼女は凍てつくような青い眼差しをニンバムに向け、ぶつぶつと呟く。


「“家族”……“山羊やぎ”の姿に、その魔力……あなた、もしかして――」

「答えてください。あなたはその術式を――知ってるんですか?」


 ニンバムが一歩、踏み込む。

 彼が肉の内に押し込んでいた“闘気”が、微かに溢れ出し、空間をゆらりと歪めた。


 前を向くニンバムとマウマウに対し、やはり“氷の魔女”は態度を変えることはない。

 彼女は何かに納得したように、再びけたけたと小馬鹿にした笑い声をあげる。


「そう、そういうこと。なぁるほど~、どうしてまたこんな“獣”臭いやつらばかり訪ねてきたのかと思ってたけど、そういうことなのねぇ。そっちのドブネズミさんはまだしも、あなたはどうやら理由が“大あり”ってことねぇ」


 また一つ、自身を――自分が抱いた“復讐心”をさげすまれ、マウマウが牙をく。

 だが彼女より遥かに熱く、重々しい怒気を孕んだニンバムがうなる。

 

 視線を前に向けたまま、痛いほどに杖を握りしめ、それこそ“獣”のような形相ぎょうそうで。


「いい加減にしてください、どっちなんですか? 知ってるのか知らないのか――さっさと答えろ!!」


 それは今までのニンバムからは考えられない、あまりにも乱暴で荒々しい言葉遣いだった。

 一瞬、マウマウが息をのむ中、なおもイシスは笑う。


 宙に浮かぶこの零度の魔女に、人間の感情が届くことなどない。


「ええ、聞いたことはあるわよぉ。あれはなかなかぶっ飛んだ発想で、私も色々と期待しちゃったわねぇ。けれどまぁ、ふたを開けてみたら色々とお粗末だったんで、盗む気にもならなかったわ。あんな――“人”を辞めさせるだけの、つまらない術式なんてねえ」


 人を辞めさせる――その言葉の真意をマウマウが問う前に、ニンバムが視線を落としてしまう。

 彼は湧き上がる感情を噛みしめ、重々しく言葉を吐き捨てた。


「そうですか……残念です。あなたなら、あの術式を……その要諦を知り得ていると、踏んでいたんですが」


 隣に立つマウマウには、まだいまいち見えてこない。

 ニンバムが追い求める“術式”――人を辞めさせる術とは、なんなのか。

 それをなぜ、こんな危険な場所まで追い求めてきたのか。


 いまだに一切が謎に包まれたまま、それでもニンバムは顔を持ち上げる。

 彼の強い眼差しに宿った感情が、先程のそれとは異なることを、マウマウが見抜いた。


 瞳に宿ったその感情の通り、ニンバムは杖を持ち上げ、切っ先を魔女に向ける。


「ならばもう、結構です。どちらにせよ、ヴァドス同様あなたは大罪人――多くの命を奪い、破壊の限りを尽くした存在。あなたのような人間これ以上、のさばらせておくわけにはいかない」


 ニンバムの全身が光を帯び、ごぅと大気が揺れた。

 マウマウが息をのみ、イシスは顎に手を当て「ふぅん」と眺めている。


 不可視の“魔力”が溢れ出し、力を増していく。

 明らかな“敵意”をむき出しにし、ニンバムは覚悟を決めた。


 目の前にいる彼女をこの場で討ち取るという、“覚悟”を。


「マウマウさん、お待たせして申し訳ありませんでした。もう何も、躊躇ちゅうちょなどする必要はありません。ここからは私も全力で――彼女をたおします」


 ずぅんと、大気が揺れた。

 ニンバムの全身から溢れ出す力が風を生み、室内の空気をかき回す。


 一瞬、マウマウはその圧倒的な姿に唖然あぜんとしてしまった。

 しかし、すぐに我に返り、鉄兜を被りなおす。


 気持ちのスイッチを無理矢理に切り替え、冷酷無比な眼差しで前を向いた。


「想定外の事態はあったが、戦闘復帰。協力者1名を加え、再び対象を殲滅せんめつす」


 二つの明確な“敵意”を前にしても、やはり“氷の魔女”が揺らぐことなどない。

 なにもない空間に腰かけ、浮かび上がったまま、眼下の“外敵”二人を見下ろしたままため息をついてみせた。


「まったく、あれこれお話したかと思えば、結局は暴力暴力暴力――本当、品のない“獣”っていやぁねえ」


 まるで緊張感などなく、あくまでけだるそうに彼女の吐いた一言が、“再戦”の合図となった。


 マウマウ、ニンバムはほぼ同時に動く。

 “ねずみ”の格闘士が一蹴りで飛翔する中、“山羊”の魔法使いは杖を握りしめ詠唱を開始した。


 圧倒的速度で叩き込まれたマウマウの左蹴りが、やはりイシスの作り上げた氷壁に炸裂する。

 がぁんというけたたましい音が響く中、たぎる熱を押さえこみながら、ニンバムは呪文を唱え続けた。


『沼地の底よりでし鬼火――あおきらめきでむくろと遊べ――』


 また一つ、ニンバムから湧き上がる光が強さを増す。

 イシスがその気配に気付きはしたが、至近距離ではなおもマウマウが食らいついていた。


 一発、二発と拳と蹴りがはしり、その度に氷壁が行く手を阻んだ。

 どれだけ無効化されようとも、マウマウは全身全霊の体術を最大最速で魔女目掛けて叩き込み続ける。

 魔力がどれだけ纏わりつこうとも、それよりも素早く動くことで四肢が凍り付くことを避け、ひたすらに攻め立てた。


『忘れるべからず、その怨嗟えんさ――惑うべからず、その憎悪――奔りて燃やせ、ゆらゆらと――』


 おびただしい炸裂音に包まれながら、なおもイシスは動かない。

 マウマウの猛攻を指一つ動かさず、自動的に“氷”の障壁で防ぎながら、うっすらと笑みを浮かべている。

 彼女が見つめる視線の先で、ついにニンバムが詠唱を完成させた。


 カッと見開いた“山羊やぎ”の眼が、真っ赤な光を放つ。


『――群がりむさぼれ――“蒼鬼焔ウィル・オ・ウィスプ”――!!』


 ニンバムは杖を両手で握り、床に切っ先を打ち付けた。

 氷が放つ甲高い音を、“ごばっ”という焔の滾る声がかき消す。


 眼下から伝わってくる“熱”に、拳を引き戻したマウマウだけでなく、優雅に浮かんだままのイシスも目を見開く。


 ニンバムの全身から、“蒼い炎”が無数に宙にばらまかれた。

 一つ一つは小さな火球だが、数十にわたるそれらが一斉に展開し、頭上のイシスへと襲い掛かる。


 また一撃、マウマウがイシスの首目掛けて蹴り込んだ。

 しかしここで初めて、その鋭い一撃が空振りしてしまう。


 気がついた時には、イシスがさらに上空へと浮かび上がっていた。

 明らかな回避行動を見せた彼女にマウマウが驚く中、上昇していく魔女目掛けて、容赦なく“鬼火”の群れが追いすがる。


 それは自在に飛び交う、“火の雨”だった。

 火球はイシスの寸前で矢のように加速し、直線的な軌道で次々に彼女目掛けて襲い掛かる。


 イシスはさらに加速させ、くるくると回転しながら空中を飛び回った。

 標的を捉えそこなった火球が部屋の壁面に突き刺さり、その度に轟音と白い蒸気を立ち上らせる。


 回避するイシスとそれを追いかける“鬼火”達によって、再び氷で作り上げられたホールが破壊されていく。

 イシスは向かってくる蒼い炎を眺めながら、あくまで微笑を浮かべていた。


 わずらわしいこと――ため息をつく彼女だったが、背後から伝わってきた濃厚な“殺気”に目を見開く。


 魔女が振り返る前に、“彼女”は淡々と告げた。


「通常の打撃は効果なし。自動生成される氷壁を穿うがつため、出力をさらに上昇」


 壁を駆け昇ってきたマウマウが、そのまま全身を駆動させ、真横に射出した。

 彼女は肉体を捻り、螺旋の軌道を加えた蹴りを叩き込む。

 その貫通力に――“ドリル”のような推進力の一蹴りに、ついに氷の壁が勢いを殺しきれない。


 氷壁を突破するマウマウを、イシスがすんでの所で避ける。

 魔女がさらに上空に退避する中、マウマウはそのまま真横に飛んでいった。

 飛来する“鬼火”は器用に、マウマウを避けイシスのみを狙う。


 思わぬ一撃にイシスの表情が微かに揺らぐ。

 だが、頭上から伝わった更なる“熱波”に、イシスはくるりと身をひるがえす。殻を


 上空にはすでにニンバムが移動し、杖を持ち上げていた。

 彼は魔力によって浮遊し、すでに“第2の詠唱”を開始している。


『虚空に湧き上がりし遥かなる憤怒ふんぬ――大気のかくを惜しむることなく喰い敗れ――』


 浮遊するニンバムのそのさらに頭上に、巨大な“火球”が浮かんでいる。

 周囲の“マナ”を喰らい、ありったけ凝縮されたそれが、一つ、また一つとその大きさを増した。


 着地したマウマウが顔を持ち上げた時には、ニンバムの生み出したそれが“太陽”のように上空に鎮座し、おびただしい熱を部屋中にばらまき始めていた。


 彼方の魔法使いは、迷いなどなくただただありったけの“怒り”を込め、両腕を振り下ろす。


『――なだれ喰らえ――“熱崩波サラマンドラ”――!!』


 火球として蓄えられた火炎が、滝のように一気に流れ落ちた。

 その本流についに魔女・イシスの姿が飲み込まれ、見えなくなってしまう。


 床まで流れ落ちた火炎が、氷の上で弾ける。

 部屋中至る所から白煙が上がり、氷の城そのものが微かに解け始めていた。


 叩きつけられた熱波に、マウマウは一歩退避しながら顔を覆う。

 煌々と光る火炎の奔流のその奥を、目を細めながら必死に見つめた。


 やった――マウマウはもちろん、上空から有り余る魔力を解き放ったニンバムもまた、手ごたえを感じていた。

 これだけの熱量ならば、人間が浴びればひとたまりもないだろう。

 おそらく抵抗することもできず、一瞬で骨まで消し炭に変えられてしまうかもしれない。


 駄目押しとばかりに、宙を舞っていた“蒼い鬼火”達も、火柱の中へと突っ込んだ。

 一つ、また一つと火炎の中にいるであろうターゲット目掛けて自動で飛来し、非情に貫いていく。


 たった一人を相手に、いささかやりすぎにも思えた。

 しかし、自身が放った術式の一切を、ニンバムは後悔していない。


 相手は人ではない。

 数多の生命を奪い続けた大罪人にして、大魔法使い――稀代の天才である氷の魔女・イシスなのだ。

 

 立ち上り荒ぶる火炎と、音を立てて跳ねる火。

 そこら中で上がる白煙と、肌に痛みを残し飛び散る火花。


 凍てつく城の中心点で荒ぶる、熱、熱、熱。


 それらの中心から、あの気だるそうな“声”が響く。


「本当に、暑苦しいわねぇ――あんた達」


 上下にそれぞれ展開していた二人の耳に、確かにその波長が響いた。

 マウマウ、ニンバムが息をのんだ瞬間、火柱の中央が突如としてぜる。


 そこから迫り出してきた“それ”が、一瞬にして頭上のニンバムと、足元のマウマウの体を捕らえてしまう。

 突然の事態に二人は対処しきれず、肉体を拘束されてしまった。


 火柱の中腹から伸びた、巨大な“氷の腕”。

 その中心点で確かに、あの“魔女”が笑っている。


「人のお城に押し掛けて、散々騒ぎ立てて、その上噛みつこうとするなんて。出来の悪い“獣”には――しつけが必要よねぇ」


 瞬間、無傷の魔女・イシスが動く。

 彼女がか細い腕を振りぬくと、氷の巨腕が連動した。


 部屋中の熱波が、その腕の放つ冷風で一気にかき消される。

 無造作に、無遠慮に振り回された二人の肉体は、躊躇することなく放り投げられてしまった。


 回避行動をとろうとしたが、間に合わない。

 ニンバムは壁に、そしてマウマウは背中から床に叩きつけられ、同時に跳ねる。


 激痛が走り、二人の喉から微かに声が上がった。

 どちらも氷を砕き割りながら、受け身一つとれずに力なく床の上に横たわってしまう。


 マウマウが歯を食いしばって立とうとするが、まるで力が入らない。

 一撃の重さに肉体が悲鳴を上げ、身体機能が麻痺してしまっていた。


 そんな二人を前に、やはり優雅にイシスが飛来し、笑う。


「そこらの格闘士や魔法使いよりは、随分とできるみたいねぇ。けれど生憎、あくまでその程度。あなた達くらいのはいくらでもいたし、今までだって何人も氷漬けにしてきたからねぇ」


 くすくすと笑う彼女を見上げ、マウマウ、ニンバムは同時に絶望してしまう。


 傷一つ、ついていない――あれだけの猛攻を叩き込んでなお、魔女の肉体にはまるでダメージを残すことができていない。


 強者だとは聞いていたし、凄まじい実力者だとも覚悟していた。

 だがそれでもなお、どうしてもその言葉が心の中に湧き上がり、そして背筋に冷たい感覚を連れてくる。


 化物――頭上で笑う大罪人に、それでも負けないためマウマウが歯を食いしばる。

 よだれが垂れようが、どれだけみすぼらしかろうが、機能しない肉体に必死にむちを打った。


 マウマウが一歩、ようやく片膝をついた、瞬間であった。

 彼方で倒れていた“山羊やぎ”が、唸る。


「――まだだ」


 そのどこかおぞましい波長に、マウマウの動きが止まる。

 上空にふわふわと浮かんでいたイシスも笑い声を止め、離れた位置にうずくまる“彼”を見つめた。


 ニンバムがゆっくりと、手をついて起きる。

 だがその体がどこか震えていた。

 まるで内側から何かがその肉体を無理矢理、動かそうとしているかのような、不自然な感覚を覚える。


「――まだ――終わってなんかない。お前は――お前だけは――」


 どくん――と、確かに大気が揺れた。

 ニンバムは杖すら持たず、己の肉体のみを頼りに起き上がる。


 顔を上げた彼の表情に、マウマウは絶句してしまった。


「絶対に――この手で止める!!」


 そこにはやはり、“山羊やぎ”の獣人がいた。

 白い体毛を持ち、大きく垂れた丸みを帯びた耳と、短い角を持ったニンバムがいる。


 その眼が、真っ赤に染まる。

 瞳孔が真横に伸び、獣そのものの形相を宿した彼が、立ち上がった。


 マウマウは動けないまま、それでも小さな声で彼の名を呼ぶ。


「――ニンバム?」


 返事はなかった。

 だが代わりに、凄まじい雄叫びが彼の体から漏れる。


 どくん――また一つ跳ねた“獣”の鼓動と共に、ローブに包まれた彼の体が、むくりと肥大化した。


 肩が、腕が、足が、腰が。

 唸り声と共に肉体が跳ね、その度に肉体が大きく、太く、隆起していく。


 そのおぞましい姿にマウマウは兜を脱ぎ、言葉を失ってしまう。

 氷の魔女・イシスもまた、どこか興味ありげに起き上がった彼を見ていた。


 また一つ、鼓動が跳ねる。

 瞬間、ニンバムの喉元から凄まじい咆哮が放たれた。


 何が起こっているのか、分からない。

 マウマウにはもはや、ここまで共に歩んできた彼が何者なのか、まるで理解できなくなっていた。


 “彼”が一歩を踏み出した瞬間、ずんと床が揺れた。

 肥大化し、二倍近くの体格に変貌した“彼”の目が、頭上の魔女を捉える。


 知的さも、静けさもまるでない、荒々しい“獣”の眼差し。

 それを受け止めてなお、氷の魔女はどこか嬉しそうに微笑んでいた。

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