第8話 朽ちた城の番兵
真横から吹き付ける強風で、古い吊り橋はぎしぎしと揺れていた。
谷底を覗き込むと、風で舞い上げられた雪の白が空間をかすませ、奥底の風景を覆い隠している。
常人ならば足をすくませてしまいそうなその絶景を前にしても、マウマウは変わらず
「うへえ、やっぱり高いなあ! こんなの落っこちたら、戻って来れなくなっちゃうよお」
背後に立つ狩人の少女は、その楽しげな姿に言葉を返せない。
シエロは彼方に見える大きな“影”を前に、やはり険しい表情を浮かべていた。
氷の城――吹雪の中に浮かび上がるシルエットを、“
包帯で応急措置をした肉体は、濃い赤色のローブを身に着けていた。
狩人の集落で譲り受けた、新たな防寒着である。
彼は手にした“杖”で、地面をかつんと突いた。
ローブ同様に、狩人達の倉庫に眠っていたものを拝借している。
アッシュ材を用いて作られたそれは所々が痛んでいるが、杖としての機能はまだまだ十分果たせそうだ。
ニンバムはまつ毛にこびりついた雪を払い、シエロに向かって笑った。
「ご案内いただき、ありがとうございます。ここから先は、僕達だけで大丈夫ですので」
そんな丁寧な言葉を最後に、ニンバムはそそくさと吊り橋へと進み始める。
戸惑うシエロに、マウマウもまた慌てて続いた。
「シエロ、サンキュー! 帰ってきたら、城の中、どんなだったか教えるね! また一緒に、お鍋食べながら話そう~」
呑気でどこまでも気楽な一言に、シエロは肩の力が抜けた。
だが、どうしても少女はそのまま、二人を送り出すことができない。
帰ってきたら――その一言にたまらず、少女の中で思いが弾けた。
「マウマウ――どうしても、行かなきゃあいけないの?」
一歩を踏み出したマウマウが、慌てて足を止めて振り返る。
ニンバムも察し、吊り橋を数歩進んだ地点で立ち止まっていた。
シエロはずっとこの時まで、考えていたのだろう。
何を言うべきか、どのようにこの二人を止めるべきか、を。
どれだけ考えたところで、納得できるような言葉は浮かんでこない。
だがそれでも、このままこの二人の“
マウマウ達がやろうとしていることが、どれだけ“無謀”なのかを少女は知っている。
かつて味わった壮絶な“痛み”の記憶を頼りに、マウマウに必死の言葉を投げかけた。
「あそこは……“あいつ”がどんなやつか、知ってるの? あいつはこの山に――たった一人で“終わらない冬”を連れてきた、悪魔なんだよ?」
少女の訴えを、マウマウは目を丸くして受け止める。
シエロは小さな手を握りしめ、歯を食いしばって思いを形にし続けた。
「大勢の狩人が“あいつ”と戦った。けど……皆、まるで勝負になんてならなかった。“あいつ”が軽く手をひねっただけで、皆、一瞬で“氷”に変えられちゃったんだ」
それは少女が――否、この山で暮らす狩人達だけが知る、辛い過去なのだろう。
かつて緑で溢れかえり、動物がそこかしこで暮らしていた山を“あいつ”は変えてしまった。
たった一人で、無慈悲に、無遠慮に。
「あなた達がなんで“あいつ”に会いたいかなんて、知らない……けど……だけど……あなた達だってきっと、無事じゃあ済まないよ。私の――お父さんと、お母さんみたいに」
その一言で、マウマウとニンバムは悟った。
ニンバムが戻ってきて、マウマウと肩を並べる。
ついにシエロはぽろぽろと涙を流し、泣き始めてしまった。
彼女にとって、あの城は――そこに住む“悪魔”は、少女から全てを奪ってしまった“巨悪”でしかないのだ。
山を変え、狩人達の日々を変え、そして大切な仲間と家族を奪った。
旅人とはいえマウマウ達がそんな存在に近付くことを、シエロには見過ごすことができないのである。
風が吹きつけ、少女の長い髪と涙を微かにさらった。
泣きじゃくる彼女に、マウマウは腰を落として肩に手を添える。
伝わってきたぬくもりと、すぐ目の前で優しく笑う“
「ありがとう、シエロは優しいんだね。私達の事、心配してくれてるんだよね」
シエロは何も返さない。
ただ拳を力強く握りしめ、体を震わせている。
言葉に詰まるニンバムの前で、マウマウはやはり変わらぬ笑顔のまま、堂々と告げた。
「私も、あそこにいる奴の事なら知ってるんだ。ちょっとばかし、“因縁”があってね。だから私は私で、どうしても“あいつ”に会いたいんだ。なにせ今日まで散々、言いたいことを温めてきたからさ」
マウマウの言葉に、シエロは言葉を失い前を見る。
急激に熱された肉体を、高所に吹き付ける雪風が強く冷やしていく。
どうしてもマウマウ達を止めたかった。
だが、間近で見つめた瞳に宿る“光”の強さに、何も返すことができない。
お気楽でも、能天気でも、マウマウという女性の奥底に燃える“なにか”の片鱗が、シエロの震えと涙を止めてしまう。
マウマウが立ち上がる隣で、ニンバムも改めてシエロに頭を下げた。
「お気遣い、痛み入ります。ですが僕も彼女と同じく、どうしても行かなければいけない理由があるのです。無謀な道だとは分かってますが――そのために“旅”をしてきたのですから」
二人の獣人の言葉を受け、シエロはやはりそれ以上、引き留めることができなかった。
ただ、吊り橋を渡り去っていく二人の背を、力なく見つめることしかできない。
一人取り残されたシエロに、吊り橋の中ほどで立ち止まったマウマウが振り返り、手を振る。
彼女は谷中に反響する大きな声で、笑いながら告げた。
「またね、シエロ! お土産、持って帰るからね!」
どこまでも呑気なその言葉に、シエロの肩の力が抜けてしまう。
あの城に何が待っているか知った上で、それでもマウマウは堂々と帰るつもりでいるのだ。
恐ろしいような、辛いような――それでいて、どこか湧き上がってくる“勇ましさ”に、気がついた時にはシエロも無言で手を振り返していた。
マウマウとニンバムはすぐに吊り橋を渡り、“向こう側”へと消えていく。
二人の背中を見送り、シエロも涙をぬぐって
踏みしめた積雪が、きゅっと音を立てる。
怒気ゆえか、悲しみゆえか――歩き出す小さな体の奥底で、やけに鼓動が高く、強く鳴り響いていた。
***
吊り橋を渡ってからというもの、雪山のそこかしこに明らかな人工物の残骸が見える。
レンガを組み合わせた塀であったり、砲台の跡のような立派な建造物もあった。
どれもボロボロだが、かつてここに人がいたということを感じさせる
雪を踏みしめ、肉体を前に押し込みながらもマウマウはそれらを見て声を上げた。
「なんか、人が住んでた跡ばっかりだね。こんな山の上に、誰かいたのかなあ?」
これに対し、前を行くニンバムが笑う。
彼は杖を使って、着実に山を登っていった。
「この山はかつての大戦時、この地域一帯を統治していた“
「へええ! ニンバムは賢いんだねえ。なんでも知ってるんだなあ」
「た、大したことじゃあ……歴史が好きなだけです」
先を行くニンバムの博識っぷりに、すっかりマウマウも
氷の城が着実に近づいてくるが、まるで緊張感のない会話が続く。
「私は、勉強とか苦手なんだよねえ。昔から体を動かすほうが好きでさあ。でも、“お師匠様”にも何度も言われてきたんだよ。感情に支配されるな――って」
マウマウの怒涛の勢いに、ニンバムは「そうなんですね」とたじろぐ。
だが、なおもお構いなしにマウマウは喋り続けた。
「なんかあれこれと、無駄なことばっかり考えちゃうみたいなんだよねえ。だからいつも、集中する時は“スイッチ”を切り替えるようにしてるんだあ」
「スイッチ――ですか」
「うん! この“兜”をかぶったら、まじめにやる――そう決めてんの」
ニンバムはちらりと、マウマウの首にくくりつけられた、あの鉄製の“兜”を見つめた。
だから、か――かつてゴーレムと戦っている彼女を、ニンバムもちらりと見たが、彼女の性格が一変していた理由を悟る。
いわばあの兜を被るという行為が、彼女にとってのスイッチングの“儀式”でもあるのだろう。
妙に納得するニンバムに、なおもマウマウはマイペースに問いかけてきた。
「ねえねえ、昔は“かりゅーきへーだん”? てのがいたんでしょう。じゃあ、この辺りにもドラゴンてのがいたのかなあ?」
「どうでしょうね。あくまで“火龍騎兵団”は他国の戦力でしたから、兵団に使われたドラゴン達も、終戦時には自国に戻ったのではないでしょうか」
マウマウは「ふうん」とうなりながら、おもむろに視線を持ち上げる。
だが、不意に目に飛び込んできた“それ”に、大声をあげた。
「ねえ、あれ、ドラゴンじゃない!?」
ニンバムが足を止めて、「えっ」と短い声をあげた。
彼もまた同じように視線を持ち上げ、そして言葉を失う。
二人が目指す山頂の方角から、大きな影が上空を飛び、こちらに近づいてくる。
巨大な翼を広げ、それはどこか優雅に宙を滑空しているようだった。
マウマウは「ドラゴンだ、ドラゴン!」と騒ぐが、一方でニンバムの表情は険しくなっていく。
この地域にドラゴンは生息していない。
ましてや、山がこんな状態になって、竜種達が活動を続けているとも考えにくい。
なら、あれは一体――ぐんぐんと近づいて来るそれを見つめていた二人は、ほぼ同時にその正体を悟る。
それは、大きな“鳥”だった。
巨大な翼と、鋭利で長い
晴れていたおかげで、大鳥の姿をまじまじと観察することができた。
それは、氷の肉体を持つ鳥である。
頭部も、胴体も、足も、翼も――鋭く、細かく生え揃った羽毛の一つ一つに至るまで、全てが“氷”によって作り上げられた、異形の存在だった。
ガラス細工のようなそれが、昼過ぎの太陽を受けて輝く姿は実に美しく、浮世離れした光景にほんの一瞬、
だがすぐにニンバムは我に帰り、強く杖を握りしめた。
マウマウはなおも大きな口を開け、こちらに向かって来る“氷鳥”を見つめている。
「うわあ、すっげえ! なんだあれ、氷細工が空飛んでるよ!」
マウマウが呑気な声を上げる一方、ニンバムはいち早く気付き、叫んだ。
慌てて、マウマウの側に駆け寄る。
「いけない、あれは――!!」
ニンバムが一歩を踏み出すのと、頭上の氷鳥が鳴くのは同時だった。
きょおおおお――という甲高い声と共に、氷鳥は翼を大きくはためかせる。
瞬間、翼から無数の羽毛――否、ナイフのような鋭さを持った氷片が、
飛来する無数の“刃”に、身構えるマウマウ。
だが、彼女が回避行動を取るよりも早く、ニンバムが頭上に手をかざした。
間一髪、刃の雨を青白い“光の壁”が受け止めて、弾く。
ニンバムの展開した“防御魔法”が、飛来した氷片の群れから二人を守ってくれた。
周囲の雪原にも、機関銃のような音を立てて刃が突き刺さる。
頭上からの猛攻が止んだのを察し、ニンバムは防御壁を解除した。
攻撃を防がれたことが不快だったのか、氷鳥はまた一つ、甲高く鳴きながら旋回する。
その軌道を見上げながらも、ニンバムはすぐ隣に立つマウマウに問いかけた。
「お怪我はありませんか?」
「うん、大丈夫。すごい、今のも魔法!?」
なおも危機感のないマウマウに調子が狂いつつも、ニンバムはなんとか苦笑で返した。
すぐさま、話題を頭上の大鳥に向ける。
「新手の魔法生物みたいですね。ですが、あんなものは見たことも聞いたこともありません。となれば、おそらく――」
そこから先は、ニンバムはあえて言葉を濁した。
その視線は、彼方に見えるあの氷の城へと向けられている。
あれは、番犬ならぬ“番鳥”だ――あの城の主によって作られ、近付くものを迎撃するために徘徊している、警護役なのだ。
遥か頭上を飛んでいても、ニンバムは氷鳥から感じ取れる魔力の波長を、しっかりと読み取っていた。
忘れるわけがない。
この形は、間違いなく“やつ”のものだ。
険しい表情で鳥を睨むニンバムと、なおもどこか緩んだ表情で宙を見上げるマウマウ。
二人の頭上でまた一つ、“氷鳥”が鳴く。
怒りなのか、はたまた嫌悪なのか。
一切の感情が読み取れない不快な波長が、雪山の冷たい空気を震わし、二人の侵入者の体を叩いていた。
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