第7話 魔法を手繰る“山羊”

 全身を包む緑色の液体の中に浮かんだまま、目の前で黙々と作業をする“父”を見ていた。

 彼の手にはこぽこぽと泡を立て、傾くたびに赤や茜色に輝きを変える、奇妙な液体の瓶が握られている。

 “父”はこちらを一瞥いちべつした後、別段、特別な感情を抱くこともなく、それを装置へと注ぎ込む。


 液体の中で必死に体を動かし、目の前のガラス壁を叩き、訴えた。

 装置に流れ込んだ液体が無数の管を走り、じわりじわりとこちらに流れ込んでくる。


 嫌だ――全身の感覚がひどく朧気おぼろげで、もはや痛覚すら正常に機能していない。

 だが、また味わったことのない、新たな“恐怖”が肉体を包み込むことを予感し、ただひたすらにガラスを叩く。


 沸き上がった涙は、肉体を包む液体と一体化し、溶けていく。

 うめき声をあげ、何度も何度も“父”を呼ぶ。


 ガラス壁の向こう側に立つその顔に、感情など宿っていない。

 どれだけ“息子”がわめき散らそうとも、身をつんざくような痛みに暴れようとも、気が狂いそうな不快感に白目をむこうとも。

 外に立つ“彼”にとって、そんなことは毛ほども興味がないのだ。


 彼の流し込んだ液体が、ようやく“試験管”へと流れ込んでくる。

 やがて肌からじんわりと伝わってきたのは、まるで電流のようにぴりぴりと暴れる、激しい感覚だった。

 白い体毛を持つ皮膚の下の肉が、おどる。

 ぼごぼごと、まるで筋繊維そのものが沸騰したかのように、全身が脈打った。


 吐きそうになったが、喉の奥に押し込まれた呼吸管のせいで、それは許されない。

 痛いほどに管を噛みしめ、耐える。


 父さん――再び呼んだ彼の名は、まるで形になることなどなく、ただ悲痛でみにくいうめき声として液体を揺らすだけだった。




 ***




 “ぱきり”という乾いた音で、ようやく“彼”は目を覚ました。

 目に飛び込んできたのは木材を組み合わせて作った簡素な小屋の屋根で、薪の火を受けて影が揺れている。

 体を起こそうとしたが、ひどく全身が痛む。

 だがそれでも、なんとか四肢は機能しているようだった。


 目を開けた“彼”の視界に、こちらを覗き込む女性の顔が飛び込んできた。

 びくりと身構えていると、丸い“鼠”の耳を持った彼女が、にっこりと笑う。


「おお、起きた! おはよう~、随分と寝てたねえ」


 なんとも馴れ馴れしい物言いに、“彼”は言葉に困ってしまう。

 ゆっくりと上体を起こすと、ようやく自分が置かれた状況がみ込めてきた。


 毛布を掛けられた自分のすぐ横に焚き火があり、その上には鍋が置かれている。

 狩人の少女・シエロが木製のスプーンで中の液体をかき混ぜ、なにかを煮込んでいた。

 

 鍋を管理する少女、そしてその隣で愛用のライフルを調整するダビィも、“彼”が覚醒したことに気付く。


 まだいまいち理解しきれていない“彼”に、なおもすぐ隣に座る彼女――マウマウが笑う。


「大丈夫~? どこか痛かったりする?」


 こちらを覗き込んでくる彼女の丸い瞳に、困惑する“彼”の姿が映り込む。

 少しだけ身を引きながら、それでも彼――白い体毛を持つ、“山羊やぎ”の獣人は返した。


「あ……い、いえ……大丈夫、です」


 透き通った声だった。

 実に物腰柔らかな言葉遣いに、マウマウは「そっかあ」と嬉しそうに笑う。


「見つけた時は全身血まみれだったから、大変だって思ったんだよぉ。でも、手当てしたけど、そこまで大きな傷もなかったみたいだし、良かった良かった」

「あの……これは、あなた達が?」

「うんっ! シエロにも手伝ってもらったんだ。薬草とか色々と分けてもらってさ」

 

 獣人の青年は、全身に巻かれた包帯を見つめている。

 マウマウとシエロの手によって、すでに応急措置を施されていた。

 大怪我こそ負っていなかったものの、至る所に切り傷や打撲が確認されたため、シエロら狩人が使う薬草を包帯の裏に仕込んでいる。


 微かに全身を包む痛みと、それでもじんわりと広がる暖かさに、青年は微かに落ち着いてしまう。

 彼が起きたことを受け、シエロは煮込んでいたそれをわんに移し、小さな木のスプーンと共に運んできた。


 少女はまだどこか青年のことを警戒しているようだったが、それでも精一杯笑顔を作ってくれる。


「これ、私達狩人の“薬粥くすりがゆ”です。ありあわせの物で作ったんだけど、良ければ」

「あ……あの――ありがとう、ございます」


 困惑しつつ、青年はぺこりと頭を下げてそれを受け取った。

 随分と礼儀正しい性格のようで、混乱はしていても礼は欠かさない。


 しばし青年は手元の椀を見つめ、警戒していた。

 しかし匂いを確かめた後に、恐る恐る一口、すする。

 口内に広がった深い苦味に顔をしかめるが、せんじた薬草が肉体に染み渡り、温もりを伝搬させていく。


 肉体が弛緩しかんしたことで妙に落ち着いてしまい、青年の口からほうとため息が漏れた。

 彼の姿を見つめ、老狩人・ダビィが豪快に笑う。


「いやあ、大事にならずに済んで、何よりだぜ。一時はどうなることかと思ったが、怪我も浅いようだし、その様子なら少し休めばすぐに動けそうだな」

「あの……あなた達が僕を、助けてくれたんですか?」

「おうとも。つっても、俺らなんかより、そっちの嬢ちゃんのおかげだわな。お前さんを初めに見つけたのも、あのでかい岩人形をぶっ倒したのも、全部嬢ちゃんのお手柄さ」


 ダビィの言葉を受け、青年は目を丸くし、またもやすぐ隣に座るマウマウを見つめる。

 おぼろげな記憶の中に、彼女が巨大な魔法生物・ゴーレムを圧倒する姿が、しっかりと焼き付いていた。

 だが、にこにこと笑うマウマウに、すぐに礼を告げることができない。

 それはやはり目の前の彼女と、岩人形と戦っていた彼女の像が、あまりにもかけ離れすぎているために生まれる、奇妙な混乱がゆえだった。


 一同はひとまず、目を覚ました獣人の青年に状況を詳しく説明する。

 ここがどこで、彼がどこに倒れていて、何が起こったのか。

 注がれた薬粥が空になる頃には、改めて全員分の茶を淹れ、焚き火を囲んで言葉を交わしていた。


 青年の名は、ニンバムというらしい。

 マウマウと同様に目的地に向かって一人、雪山を進んでいたが、道に迷い、あの岩場にたどり着いたようだ。


 この共通点を受け、マウマウがどこか嬉しそうに声を上げる。


「そっかあ、ならニンバムも私とおんなじだねえ。雪山、白い景色ばっかりで方向がわかんなくなったゃうんだよなあ」

「そ、そうですね……本当にありがとうございました。ご迷惑をかけてしまったみたいで……」


 改めて頭を下げられても、やはりマウマウは「だいじょぶだいじょぶ」と、軽く笑って返した。

 どこか噛み合わない二人を見ていると、なんだかすぐそばのシエロまで肩の力が抜ける。


 ここで、焚き火を挟んで対面に座るダビィが、少しだけニンバムを掘り下げていく。


「しかし、なんでまたあんな所で倒れてたんだい? 俺らが見つけた時は、随分とズタボロだったがよ」

「それが、うまく思い出せないんです。狼の群れに襲われたのは覚えているんですが、その後はどうにも――」


 その奇妙な事実に、ダビィは「ふうむ」と顎ひげを撫でる。

 強烈なショックのせいか、一時的な記憶喪失となっているらしい。

 ダビィだけでなく、シエロも密かに思考を巡らせていた。


 こんな辺境の地を訪れる旅人など、そう多くはない。

 ましてやマウマウのように、あの氷の城に近づく者など皆無だ。

 凶暴化した獣だけでなく、魔法生物まで出現する過酷な雪山にわざわざ足を踏み入れようなど、それ相応の理由がなければ不自然なのである。


 一体、彼は何をするために――狩人らの緊張の糸が、不意にねずみの耳を持つ彼女の声で緩んでしまう。


「ねえねえ、あの時見せたあれ――あのゴーレムを吹っ飛ばしたあれってさ、もしかして“魔法”?」


 唐突な問いかけに、ニンバムは慌ててすぐ隣のマウマウを見た。

 彼女は目をキラキラさせ、ずずいと顔を近付けている。

 たじろいでしまったが、それでもニンバムは答えてくれた。


「えっと……ええ、まあ……初歩的なものですけど」

「へええ! 私、あんな凄い魔法、初めて見たよお」

「そう、なんですね。目が覚めて、ゴーレムと戦うあなたが見えたので、あの時は咄嗟とっさに――けど、今思えば軽率でした。あの距離では、あなたも巻き込んでしまう可能性がありましたから……」


 シエロやダビィも、つい数刻前のあの激闘について思い返す。

 ゴーレムを押し返したのはマウマウの凄まじい体術だが、トドメを刺したわけではない。

 岩人形の頭を突如包んだ爆炎。

 一撃で、堅牢なゴーレムの頭部を吹き飛ばしてしまった、あの見えざる力。


 狩人達とて、魔法の力を体験したことはある。

 だがマウマウが言う通り、あそこまでの凄まじい破壊力の術は、そうそう見ない。


 しかも詠唱すらせず、疲弊した肉体であれ程の威力を――包帯まみれで静かに座っているニンバムに、シエロとダビィはどこか、薄寒い感覚を覚えてしまう。


 だが、マウマウはあくまでそんなことは気にせず、笑顔のまま彼と談笑を続けていた。


「ねえねえ、他にはどんなことができるの? 風に乗って空を飛んだり、雷雲を作ったりできるの?」

「そ、そういうのは、ちょっと……風も雷も、生み出すことはできますけど」

「へええ、すごーい! ニンバムは魔法使いなんだねえ。いいなあ、私、昔に適性検査したんだけど、向いてないって言われちゃったんだよね。魔力も不安定だし、そもそも才能もないんだってさあ」

「そうなんですね……」


 やはり怒涛の勢いで語るマウマウに、ニンバムはたじろぐしかない。

 ニンバムもそうだが、狩人らからすれば相変わらず、この陽気な獣人の女性が隠している実力にも驚いてしまう。


 シエロとダビィが手も足も出なかったゴーレムを、マウマウとニンバムは意図も容易たやすく打倒してしまったのだ。

 実際に目で見ていてもなお、狩人達はその事実をすんなりと信じ切ることができない。


 大きなため息をつき、ダビィは仕切り直すように告げた。


「まあ、なんにせよ、ここなら安全だ。もうじき夜になるし、今日は大人しくしときな。また無理に歩き回って、おんなじように道が分からなくなっちまったら、元も子もねえからな」


 ダビィの提案に、ニンバムは少し迷った後、またも頭を下げた。

 しかしこの一言で、どこかマウマウが残念そうに声を上げる。


「そっかあ。今日中に“あの城”まで行きたかったけど、しょうがないなあ。でもまあ、また明日一人で行ってくるよぉ。おかげで、大体の道順なら分かったからさあ」


 言わずもがな、それはマウマウがシエロらの案内を経て辿り着こうとしていた、あの“氷の城”のことだ。

 彼方に影こそ確認したものの、あの谷を越えてからもまだかなりの距離がある。

 諦めていないマウマウにシエロはため息をつき、ダビィもどこか苦笑いを浮かべていた。


 しかし唯一、ニンバムだけがそのマウマウの言葉に、目を見開いている。


「城――あなたも、あの氷の城へ?」


 彼の一言で、全員の動きが止まった。

 驚く狩人二人をよそに、マウマウだけはいつもの笑顔で首をかしげる。


「うん、そうだよ。なに、ニンバムもあの城のこと知ってるの?」

「え、ええ、まあ……一体なぜ、あなたはあの城へ?」

「ん~、ちょっとそこに住んでるやつに用事があるんだよね。言いたいことがあるっていうかさぁ」


 改めて聞いても、マウマウが氷の城を目指す理由はなんとも不透明だ。

 ニンバムも少し困惑したようで、「はあ」と力なく返している。


 だが、どこか今まで以上の強い光を目に宿し、彼は思いがけない提案を投げかけた。


「あの……明日、城に向かうっておっしゃいましたよね? もし良ければなんですが、僕も同行させてくれませんか?」


 ここで思わず、ダビィが「なにい」と声を上げてしまった。

 シエロも口を開き、驚いてしまっている。

 そのシエロが、反射的にニンバムに向かって問いかける。


「ど、どうして……なんであなたまで、あんな“危険な場所”に?」

「ええと……僕もその――“城主”に用事がありまして」


 簡潔な回答だったが、シエロの表情がどこか悲しみの色に染まる。

 彼女の心中を察することなく、マウマウはなおも場違いな笑顔を浮かべていた。


「なんだあ、ニンバムも私と一緒だったんだねえ! うん、じゃあ明日、また一緒に行こう!」


 快諾してくれたマウマウにニンバムは「ありがとうございます」と頭を下げた。

 しかし、ダビィがこれには待ったをかける。


「おいおいおい、ちょっと待ちな。明日って――兄ちゃん、あんたの傷、まだ治り切ってねえだろうが」

「ご心配いただきありがとうございます。ですが、傷なら“治癒魔法”で自動的に治しますので、問題ありません」


 予想外の返答に「なっ」と言葉に詰まるダビィ。

 間近にいるシエロは、ニンバムの肉体がうっすらと淡い緑色の光に覆われていることに、ようやく気付いた。

 どうやら彼は気付かぬうちに、ひそかに“治癒魔法”を発動し傷を修復し続けていたようである。


 止めなければ――シエロは何度も、目の前の“獣人”達を見て、そう思った。

 あんな場所に、そしてあんな“怪物”に会いに行こうというこの二人を、なんとか食い止めるべきだと。


 だが、目の前で他愛ない会話をする二人の、得体の知れない“影”の部分が、少女の一言を躊躇ちゅうちょさせてならない。

 あっけらかんとしていてもなお、五体のみで怪物と対等以上に渡り合うマウマウ。

 そして、詠唱すら必要とせずに、あらゆる魔法を使いこなすニンバム。


 この山で今、何が起こっているのか。

 少女が戦慄を覚える中、やはり目の前の二人は緊張感を持たず、互いの身の上話に花を咲かせていた。

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