第1話 拳を駆る“鼠”
また一つ、少女は雪を大きく蹴って、跳ぶように前進した。
己の身軽さを活かし、新雪の大地を軽やかに進む。
強い風に混じり、雪の粒が容赦なく体を打ち付けるが、まるで構うことなく前を向く。
どれだけ風が騒ぎ立てても、“狩人”としての能力は揺らがない。
神経を研ぎ澄まし、方角を見極める。
北西――風の中に揺らぐ微かな空気の波を捉え、駆ける。
視界は悪くはないが、雪山の白一色の中では遠近感が狂い、まともに走ることも難しい。
少女は
どれもこれも、この地で暮らす中で自然と身につき、練り上げられたものだ。
雪化粧を施された大きな丘を超え、ようやくたどり着く。
木の影に身を隠しつつ、丘の下――そこで動く複数の影を、目を
雪原の白の上で動く影の数は、四つ。
中央に立つ人影の周囲を、四足の生物が素早く、
雪に溶け込むようなその美しい白毛を見て、少女は戦慄しながらも、素早く背負っていた弓を構える。
ホワイトウルフ――この雪原地帯に生息する、野生獣である。
極寒の世界にて群れを成し、環境に適応することで猛吹雪の中ですら獲物を狩ることのできる、強者の群れだ。
雑食かつ
樹木の幹を背にし、少女は――シエロは弓に矢をつがえ、腰を落とした。
猛吹雪が通り過ぎた次の日、この地域に足を踏み入れる狩人はいない。
それはホワイトウルフが、吹雪の後に活発に活動することを知っているからだ。
この時期の奴らは、通常時のそれとは比べ物にならないほど手ごわい。
矢の先端をぐるぐると旋回する一匹に合わせながら、歯噛みする。
遠くに見える獣の体毛に刻まれた鮮やかな“朱の紋様”に、状況が思った以上に“まずい”ということを理解させた。
ホワイトウルフはその見た目に反し、本来は温厚な野獣だ。
賢く、必要以上の獲物や領域には決して踏み込まない、紳士的な立ち振る舞いを是とする。
いたずらに侵害しない限り、その鋭利な牙で襲われることもない。
だが、猛吹雪の到来により地上の“マナ”のバランスが崩れると、突如として狂暴化し、所かまわず獲物を襲うようになる。
その独特の状態を、狩人達は“
こうなったホワイトウルフは、通常の何倍もの戦闘力を発揮する。
あの赤い紋様は、まさに“
普段は気品すら感じられる狼の整った顔立ちは、今や荒ぶる怒りで
三匹の野獣は、すぐ近くに立つ人物を
頭まですっぽりとかぶった
だが誰であろうと、この状況が絶望的であることに変わりはないだろう。
たとえ訓練を積んだ狩人ですら、今のホワイトウルフを三匹同時に相手取ることは、至難の
とにかく一矢を――シエロがぐっと弦を引き絞った瞬間、一匹が飛び掛かる。
ほんの数秒、判断が遅れてしまったことを、少女は心の奥で歯噛みした。
迷うことなく、たった三蹴りで狼は“獲物”へと到達する。
ぼっと白雪を巻き上げて跳び、目の前の
しかし、狼の牙が肉や骨を食いちぎることはない。
すんでのところで謎の人物は身をひるがえし、狼の一撃を避ける。
間一髪、白狼の牙が
あらわになった姿に、シエロは息を飲んだ。
そこに立っていたのは、すらっとしたシルエットの女性であった。
雪国だというのに肩から先を露出し、半ズボンだけを身に着けた軽装である。
手足の先は幾重にも包帯を巻きつけているだけで、見ているだけで寒そうだ。
唯一、頭部にだけは、目元までを隠す簡素な“兜”を身に着けている。
騎士が被るようなものと違い、最低限頭部を保護するための軽量な一品だ。
兜からはみ出た丸く大きい――しかし左側が一部欠けた耳。
そしてズボンの尻からはみ出た、細長く白い体毛を持つ尻尾が、シエロに悟らせる。
“獣人”だ――そのあまりにも雪国慣れしていない姿に、即座に察する。
野獣に囲まれた彼女が、外の地からきた存在なのだ、と。
弦をしっかりと引き絞ったまま、シエロは吠えた。
「こっちに向かって走って! 私が援護するから、はやく!」
言いながらも、シエロは丘を一気に滑り降りる。
叫びはしたものの、まるで自信はなかった。
シエロ自身、狩人として何匹もの野獣と戦ってきた経験はあるが、“
どくどくと、小さな体の奥で鼓動が跳ねた。
だが、迷っている暇などない。
一秒のブレが即、命の終わりに繋がる――野生の世界のノウハウは、嫌というほど理解しているつもりだ。
バシュッという風切り音を立て、矢が狼に迫る。
白狼の動きを先読みした、絶妙な一矢。
吹きすさぶ雪をいくつも砕き割り、シエロの狙い通りに飛んだ。
当たる――命中を予感したシエロの目の前で、狼は跳ぶ。
そしてあろうことか、自身に飛来した矢を牙で受け取めてみせた。
あっ、と声を上げてしまうシエロ。
彼女の目の前で、白狼は矢を無残に砕き折り、
丘の下に降り立ち、もう一発、打ち放つ。
しかし、今度は身をひるがえした狼の尻尾によって、軽く叩き落とされてしまった。
狂暴化していようが、ホワイトウルフはしっかりと自身に迫る敵影を見据え、それを的確に迎撃している。
嫌な汗が、少女の全身に湧き上がっていた。
狼達はシエロのことなど、まるで眼中にない。
それもそのはずで、あくまで近くに立つ手ごろな獲物――兜をかぶった獣人の女性だけに、照準を合わせている。
まずい――シエロが矢を引き絞る前に、またも狼は女性にとびかかる。
たまらず、シエロは叫んでしまった。
「逃げて! 早く!!」
それが無意味なことだとは、理解していた。
襲い掛かる狼を前に、足元すらおぼつかない雪原をどう逃げろというのか。
だがそれでも、このまま“彼女”が食い殺されてしまう姿など、見たくはなかった。
狼は真っすぐ、獲物に飛び掛かる。
向かってくる白狼に視線を合わせ、ようやく女性は動いた。
彼女は静かに呼吸を吐きながら、腰に携えていた“武器”に手をかける。
両の手でしっかりとグリップを握りしめ、そのまま持ち上げ、構えた。
いつの間にか彼女の両拳を覆うように、鉄と革を張り合わせて作り上げられた、人工の“拳”が握られている。
それが「セスタス」という武器であることを、シエロは後程知ることとなる。
飛び掛かってくる狼。
その向かってくる殺意を、女性は全身でしっかりと感じ取っていた。
逃げる気はない。
彼女はただ少しだけ腰を落とし、前を向く。
ただしっかりと、向かってくる狂気を見据えた。
まとわりついた
息を飲むシエロ、ありったけの殺意を向ける狼。
その中でただ一人、まるで
「対象は3。戦力分析するも問題なし。地形的不利、天候的不利、視界的不利。すべて差し引いて出た結論は――」
シエロが悲鳴を上げそうになった。
狼の牙が、女性の頭部を噛み砕こうと迫る。
打ち付ける風と雪を存分に浴びながら、“彼女”は静かに吼えた。
「問題、まったくもってなし。これより、迎撃――
牙がガチン、という音を立てて空を噛む。
寸前で女性は上体を微かに反らし、飛来する白狼を避けてみせた。
そして瞬間、彼女の拳が跳ね上がる。
交差的に放った一撃は、空中の狼を真下から打ち抜いた。
ずどん――という音が、大気を震わす。
巨大な砲音のようなそれの中に、狼の「ギャン」という悲鳴が混じった。
身体を折り曲げ、吹き飛ぶホワイトウルフ。
その姿に、シエロは「えっ」と情けない声を上げ、目を見開いてしまった。
殴った――目の前で起こっている事態が飲み込めず、少女は矢を引き絞ったまま、身動きが取れない。
狼は地に伏せたまま、ぴくぴくと
腹部に叩き込まれた一撃は、致命傷だったのだろう。
口から大量の血を吐き出し、痛々しく震えている。
仲間がやられたことで、さらにホワイトウルフ達に火が付いた。
二匹がほぼ同時に駆け出し、前後から女性に襲い掛かる。
だが、あくまで彼女は拳を軽く持ち上げたまま、向かってくる狼の“気配”に神経を尖らせていた。
「襲撃方向は前後。約半歩、後方が早い。回避の後、即座に迎撃」
ぶつぶつと、まるで自分に言い聞かせるように呟く女性。
風と雪が舞う中、前後から迫る狼の足音を明確に聞き分け、その数秒の誤差から計算し、動く。
前を向いたまま、背後から跳びかかった一匹を避ける。
そして左足を真上に突き上げ、空中の狼目掛けて、鮮やかな蹴りを叩き込んでみせた。
またも悲鳴を上げ、吹き飛ぶ狼。
一方、勢いを殺さずに、残る一匹が前から襲い来る。
女性はすぐさま上体を折り曲げ、かがむような体勢で牙を避ける。
そして同時に足を振り上げることで、その
ついにシエロは「おお!」と歓声を上げてしまう。
二匹の狼はそれぞれ一撃ずつ叩き込まれ、地面へと落ちてしまった。
最初の一匹同様、鋭くえぐりこまれた蹴りが内臓までを潰し、致命傷を与えていた。
信じられない――シエロは弓を下ろし、口をあんぐりと開けたまま、目の前に立つ女性を見つめてしまう。
狩人ですら手こずる狂暴化した狼三体を、ほぼ生身の体術だけで仕留めてみせた。
それも、一撃たりとも傷を負わずに、だ。
高速移動する獣に一撃を加えることはもちろん、狂暴化した奴らを一撃で貫くその破壊力にも、絶句してしまう。
“
何者なのだ、と思わずつばを飲み込んでしまう。
シエロの視線を受けてもなお、女性は前を向いていた。
「残存戦力なし。当方、被弾なし。結果は良好。これにて戦闘を終了する――」
相変わらず、どこか無機質な声色だ。
兜の隙間から見える眼差しは青く、そして鋭い。
彼女は武器をゆっくりと下ろし、戦闘態勢を解いてみせた。
謎の女性がシエロに向き直る。
こちらに向けられた視線に、びくりと背筋が伸びてしまった。
何か言わねば――そう思っていても、なんだか言葉が湧いてこない。
あまりにも圧倒的なその戦闘力に、何故かシエロは獣でもないのに、その女性を警戒してしまっている。
それはきっと、“狩人”として常に対象の戦闘力を見極めてきた少女ゆえの、反射行動だったのだろう。
風変わりで、雪国に不慣れということはすぐに分かる。
決して強力な武器を持ち合わせているというわけでもない。
だがそれでも、目の前の彼女は――強い。
吹雪が弱まる。
少しだけ明瞭になった視界の中に、戦いの熱が消え切らない彼女を捉えた。
女性のか細い肉体の背後に、まるで
何とかコンタクトを取らなければ。
シエロも意を決し、一歩を踏み出す。
しかし、その小さな足に伝わってきた感触に、息を飲んだ。
彼女は冷静に、足の裏に神経を集中させる。
まさか――少女はほぼ反射的に、再度、弓矢を構えていた。
こちらに一歩、歩み寄ってくる女性。
だが彼女に、シエロは叫んだ。
「動かないで、もう一匹――左から来る!!」
少女の声に、確かに女性の眼が大きく見開かれた。
シエロの言葉通り、女性の立つ左側の地面が爆ぜた。
その真っ白な間欠泉の中から、牙を剥き出しにしたホワイトウルフが姿を現す。
普段、狼はこんなことはしない。
こんな異常な戦法をとるのは、彼らが狂暴化した時のみだと聞いている。
地面を――雪の中を潜り、奇襲を仕掛けるなど。
女性の反応が遅れる。
拳を持ち上げるよりも先に、狼の牙が彼女の頭部へと迫った。
だが、誰よりも早く動いていたのは、狩人の少女だ。
彼女は引き絞った一矢を、迷うことなく放つ。
予感していた的目掛けてそれは真っすぐに飛び、真横から突き刺さった。
首を貫通した矢が、一撃で狼を絶命させる。
微かに反れた狼の肉体を、女性は身をひねって避けた。
奇襲を仕掛けてきた四匹目も、力なく地面へと落ちてしまう。
呼吸を取り戻し、一気に肉体が熱を帯びる。
シエロは必死に呼吸を繰り返しつつも、足裏に意識を集中させた。
もう、反応はない。
あくまで奇襲を仕掛けてきたのは、先程の一匹のみらしい。
「よ、良かった……なんとか、なって……」
言葉を絞り出しはするも、息も絶え絶えだった。
目の前に立つ兜の女性は、しばしシエロの姿を見降ろしていた。
何も言わず、拳を下ろし、じっと。
「あ、あの……大丈夫、ですか? って言っても、怪我はなさそう、だけど……」
恐る恐る、問いかけてみる。
だが、そもそも先程の圧倒的な戦闘力を前に、どこか場違いな質問にすら感じてしまった。
やはり、すぐに答えは返ってこない。
シエロは弓を手にしたまま呼吸を整え、目の前の彼女を見つめる。
ようやく、女性が動く。
彼女は武器を腰に収め、両手でゆっくりと兜を脱いでみせた。
銀色の短い髪が、風の中に少しだけ踊った。
大きな丸い耳だけでなく、先端が黒ずんだ鼻や、微かに頬に見えるヒゲはやはり獣人のそれだ。
その見た目から、おそらく“
大きな眼で女性はこちらを見つめた。
シエロはその端正な顔立ちを前に、言葉を失う。
黙したままの小さな狩人の前で、獣人の女性は目を閉じ、深く呼吸を繰り返した。
肉体の内に
彼女は再び目を開き、ようやくシエロに向かって言う。
シエロが想定していたよりも、遥かに大きな声で。
「いっやー、まーじ危なかった! 狼が地面潜ってくるなんて、思わないもんねぇ! ありがとう、助かったよ! 本当に感謝感激!」
笑顔を浮かべ、嬉しそうに語り掛ける女性。
だが一方で、そのあまりにも砕けた姿に、目を丸くしてしまうシエロ。
「かっこよかったねえ、さっきの! あなた、ここらに住む狩人さん? いやぁ、良かった、やっと人間に会えたよぉ。もうしばらく、この雪国で独りぼっちだったからさぁ、毎日不安で不安で――」
「あ、えっと……あの……」
「つーか、やっべ、寒い寒い寒い! 狼の奴、
もはやシエロの言葉など待たず、彼女は急に寒がりだし、狼がはぎ取った自身の
慌てているせいか何度も転びかけ、そのたびに「冷たいっ!」と雪の温度に声を上げている。
まるで別人だ。
先程、戦いの中で見せたあの冷静沈着――いや、むしろ“冷徹”とすら取れる眼差しと言葉は、今の彼女とはまるで逆であった。
本当に、狼を鮮やかに粉砕して見せた人物と、同じなのだろうかと疑ってしまう。
いつしか吹雪は止んでいた。
昼過ぎの太陽が照らし出す真っ白な雪原で、彼女は
嬉しそうに笑うその無邪気な横顔に、シエロは唖然としたまま「はあ」と声を上げるしかなかった。
身を震わせながら、それでも白銀の世界の中で嬉しそうに笑う“鼠”の姿に、ただただ肩の力が抜ける。
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