事件当夜の服装は

いがらし

事件当夜の服装は

夜の九時。暗い路上には、赤いブラウスを着た一人の女性と、

三人の救急隊員が立っていた。

そして、男性が一人倒れている。

そこへさらに、男性の二人組がやってきた。

二人組のうち、年上で白髪頭の男性が歯切れの良い口調で自己紹介する。

「我々は警察の者です。殺人事件があったそうですが?」

救急隊員たちはその質問に応えず「お早いお着きですね」。

「すぐ近くで他の事件の捜査をしていたら、

緊急連絡を受けまして。そちらの女性は?」

「彼女が通報しました」

「では、君がこちらの方々から事情を聞いてくれ。

私は被害者の容態を確認しよう」

白髪頭の老刑事は、隣にいた若い刑事に指示した。



数日後。警察署の会議室に、大勢の男性が集まった。

「被害者は助かったんだって?」

捜査一課の課長に質問され、老刑事は頷く。

「悪運の強い奴です。被害者は、私たち警察関係者の間でも

有名な詐欺師でして。最近でも、鈴木というヤクザや

佐藤というデブを『からかった』という噂です。

まあ、敵が多いので、少しは用心していたようです。

夜道を歩いていたら、殺気を感じて振り返ろうとして……」

「頭を殴られたのか」

「目の前が真っ暗になって、相手の腕を掴むのが

精一杯だったとか。まあ、すくに振り払われたようです」

「その様子を見ていた女性がいるそうだね」

若い刑事が挙手する。「事件当夜、まず私が

彼女に話を聞きました。黒か濃紺の背広を着た男性が

被害者の後ろから近づき、頭部を殴ったそうです。

頭から血が噴き出すのを見て『死んだ』と思って悲鳴を上げ、

殺人事件を見たと携帯電話で通報したんです。

実際には、太い血管が切れただけでした。

それから、犯人は彼女の悲鳴を聞いて走って逃げています」



課長は、あきれたように両手を上げた。

「暗い夜道で見たものを、よくそんなに

詳しく語れるね。信用できるのかい」

「その女性、中学高校と美術部に所属していたそうです」

「それがどうした?」

「つまり、目の前にある物をスケッチする練習を

繰り返していて、観察眼は確かなんです。

間違えたりなどしないと断言しました。

じっさい、被害者が相手の腕を掴む瞬間も

正確に説明し、被害者が語った内容と一致してます」



課長が黙り込んで考えていると、別の男性が挙手した。

科学捜査を担当している、いわゆる鑑識である。

いつもは検査した結果を読み上げるだけで、自分から

発言機会を求めるのは珍しく、会議室のどこかから

「あいつ誰だっけ?」という言葉が聞こえてきたほどの、

目立たない存在だった。

「事件当夜、私が行った検査について説明させて下さい。

概要を聞いて、私はまず被害者の指を

確認するべきだと考えました」

「被害者の指?」

「背広の繊維が付着しているはずですから」

その言葉を聞いて、課長は納得したように頷いた。


これは説明が必要だろう。

服を指で触ると、ごく微量ではあるが、

服の繊維が指に付着する。

警察では、この繊維を調べるのである。

例えば、痴漢の捜査で。

痴漢が、制服の女子高生を触ったとする。

すると、痴漢の指には制服の繊維が

付着するのである。

もし、痴漢が「触ってない」と訴えても、

指を調べればその言葉が嘘だとわかるわけだ。

それだけで有罪になったりはしないが、

大きな証拠のひとつにはなる。

警察官にとっては、常識ともいえる話である。


鑑識が言葉を続ける。

「現場にいた救急隊員たちに頼み込んで、

被害者が病院に運び込まれる直前、

指を調べることができました。

結果は書類にまとめましたが、今私が

口頭でご説明した方が早いでしょう。

被害者の指から、背広らしき繊維は

見つかりませんでした」



会議室にいたほぼ全員が驚いた。

「あー、つまり、それは」課長がゆっくりと

話し出す。「被害者は、相手の腕を

掴んでなどいない、ということかな?」

「私は違う意見です。実をいうと、

被害者の指からは、白い繊維が

大量に検出されました。綿(めん)です」

「白い綿が、大量に?」

「はい。おそらくは、ハンカチです。

犯人はハンカチで、被害者の指を拭いたんです。

背広の繊維を消すために。

その後、ハンカチは捨てたのでしょう。

着ていた背広よりも、ハンカチの方が

簡単に処理できます」

課長は腕を組んだ。「なるほど。

物的証拠がひとつ、消されてしまったわけか。

犯人は抜け目のない男だな。腕を掴まれたあと、

自分が着ていた服の繊維を拭き取ることを思い付くとは。

いったい、何者なんだ」

「……あの、課長」鑑識が、小さな声で言う。

「今までの皆の説明で、誰が犯人か

おおよそわかると思うのですが」

ほぼ全員が、もう一度驚いた。



課長が苦笑した。「すまない。

自分にもわかるように教えてくれ」

「簡単な理屈です。被害者の指を

ハンカチで念入りに拭くなんて、他人の目があったら

決してできない不自然な行動です。

つまり、周囲に人がいない時にやったんです」

「あの女性はしばらくの間、被害者と

二人きりだったよな……」

「え? まさか、女性を疑ってるんですか?

証拠を消したあと、わざわざ自分で

通報したとでもいうんですか?

そんなおかしな話しはないでしょう。

通報したあと、その場から立ち去ることなく

救急車や警察を待っていた勇気ある女性ですよ。

疑うとはあまりに失礼だ」

「……じゃあ、犯人は誰なんだ」

「いるでしょう。被害者の指を拭くチャンスがあった人」

鑑識は、鋭い目で、老刑事を睨み付けた。



老刑事が、その視線に気付いた。

「……あ、俺か?

俺が何をしたっていうんだ」

「あなた事件当夜、現場のすぐ近くで

若い刑事と他の事件の捜査をしていたそうですね。

その時、別行動を提案したのではないですか?」

老刑事は無言になった。鑑識は言葉を続ける。

「一人きりになって、詐欺師とやらを狙った。

どんな恨みがあったのかは知らない。

それより重要なのは、相手に腕を掴まれたことでしょう。

繊維から、自分が着ていた背広にたどりつくかもしれない。

その心配を解消するため、現場に戻ると

もう一度別行動を提案した。

『君が事情を聞いてくれ』でしたよね」


若い刑事は、当夜のことを思い出していた。

女性に事情を聞いたのは、確かに自分だ。

あの人は「被害者の容態を確認する」と言っていた。

その言葉は、証拠を握り潰すための方便?

いや、それだけじゃない。

女性に近づきたくなかったんだ。

姿を覚えているかもしれない目撃者に、近づきたくなかったんた。

若い刑事は青い顔で座っていた。

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