第4話 京都と春-4
真っ暗な中でのわずかな光の反射が、辛うじてそれを眼であると認識させた。比較的大きな眼が二つ、それを囲むように小さな眼が六つ。瞳孔の動きこそわからないが、その眼が駿を捉えているのは確かだった。しゅうしゅうと空気の漏れる音が聞こえる。呼吸をしている。目の前の「これ」は、確実に生き物だ。
❘鬼蜘蛛だ。駿は確信した。あんなオカルト話を信じたくはなかったが、黒瑪瑙のような八つの眼からしてそう考えるしかなかった。
「あれを悪ふざけで見に行って、石を投げたり塚に触った人間は蜘蛛に襲われて食べられちゃうんですって。」
先ほどの教師の言葉を思い出す。蜘蛛塚を見に行った覚えも、まして触ったり石を投げたような覚えもなかった。
しかし、鬼蜘蛛が「変わって」いたら?「土蜘蛛」が凶暴性を増して「鬼蜘蛛」になったように、凶暴化がエスカレートしたとしたら?誰彼構わず襲うようになっていたとしたら……?駿の頭の中を不毛な仮説がめぐる。どちらであれ、一歩でも踏み出して逃げなければいけないことは確かなのだ。
そうは思っても足が動かなかった。どこをどう動かせば足が走り出してくれるのかが分からなかった。脳と筋肉の間の神経が全部焼き切れてしまったように、身体が動かなかった。うるさくなる鼓動と不快な汗だけが、駿が行える身体活動の全部だった。長く深い呼吸の音が、存在を悟らせないようにこちらに近づいてくる。
獲物が恐怖に凍り付いていることを、蜘蛛はわかっているようだった。お願いだから疲れと不安が見せた幻覚であってくれ、と願うしかなかった。このまま道端でおかしな妄想に怯えるよりは、いっそここでふっと気をやってしまいたかった。
何とかして足を動かさなければならない。駿は一か八か、倒れこむ形で走り出そうと、一歩前に出ていた右足にぐっと体重を掛ける。そうして足に意識を向けると、左の足元に違和感があることに気がついた。ズボンと靴下のほんの隙間に、くすぐったいような、やわらかい毛の感触。ほんのり暖かく、動いている。
——何かいる!
駿が飛びのく形で左足を踏み出すと、そのまま身体が慣性で走り出す。とにかく前へ、さっきまで大通りだった方向に向かって走り出す。周囲のことは気にしていられなかった。体を動かせるだけ動かして前に進むしかなかった。紙袋をひとつくらい取り落としたような気もしたが、そんなことはどうでもよかった。
後ろを振り返ることはできなかったが、先ほど同じコツコツとした足音が追ってくるのはわかる。すぐに捕まえられるような距離ではないが、確実に追ってきている。逃げなければ、逃げなければ。
——逃げるってったって、どこに?
しばらく走るうちに、そんな考えが浮かんだ。線香の匂いは薄れてきている。確実にあの蜘蛛塚からは遠ざかっているが、どこまで追ってくるかはわからない。他の人のいるところへ出れば何か変わるかもしれないが、蜘蛛と小動物のほかに生き物の気配は全くなかった。家まではとても走れる距離ではない。建物全部の門扉が閉ざされている中、かくまってもらえるよう助けを求めることもできない。喉の奥から血の匂いがする。
——どれだけ逃げても、無駄なんじゃないのか?
余計な考えだった。道の窪みに足を取られ、駿は大きくつんのめる。ここで転んだらもう立てないような気がした。
無意識に地面に着こうとした手を、誰かが取った。
「走ってください!」
声の主は駿の手首をがっしり掴んで引き上げる。十代前半の、声変わり前の少年の声だ。暗くて姿型こそはっきりと判らないが、助けてくれようとしているらしかった。この人物も信用に足るかは判断できない。それでも、あの蜘蛛におとなしく食べられるわけにはいかない。汗で滑った手を駿はもう一度しっかり握り返して、腕を引かれるままに走り出した。
走るのに精一杯で、言葉を交わすことは出来なかった。暫くまっすぐに走っていたが途中で腕をぐっと左に引っ張られた。左に曲がるという事だろう。大通りから大きく左へ。そこからも曲がる方向に腕を引かれながら、うねうねと碁盤の目の中を走っていく。かなり狭い裏通りに入ると、前を走る足音はペースダウンして、そして止まった。追いかけてくる足音はない。駿ともう一人の荒い呼吸の音だけが、狭い路地に響いていた。
夜闇に目が慣れてくると、周囲の様子がぼんやりと認識できるようになった。長屋のような木造の建物が道なりにずらっと立ち並んでいる、駿と少年は建物と建物の間の細い路地に身を隠しているようだった。湿度に晒された木の黴臭いような、それでいて懐かしいようなにおいがする。駿は祖父の家の蔵を想起した。どうやら古い家の並ぶ住宅街のようなところに逃げてきたらしい。
「あの。」
乱れた息から絞り出した声が、二人分重なった。そこで緊張の糸がぷつっと切れて、二人ともなんだか笑った。
「ちょっと待ってくださいね。」
随分リラックスした声で、少年は言った。鞄の中をあさるような、布と物のごそごそした音がしばらくして、灯りのついた提灯がそのまま出てきた。
「あれ、驚かないんですねえ。」
「……驚く要素ありました?」
「あ、そっか。現代っ子ですね!」
「強いて言えば、ライトの形には驚きましたけど。」
「やっぱり現代っ子ですねえ。」
提灯の明かりで少年の全身があらわになる。見たところ十二歳から十四歳くらい、駿より一回り年下くらいだろう。栗色の癖の強い髪をしていて、毛先があっちこっちに跳ね散らかっている。ひと房だけ特に頑固に跳ねた髪があり、頭の動きに呼応してひょこひょこと動いている。どんぐり眼に低く小さい鼻、ふっくらと丸い頬のあどけない顔立ちだ。ずり落ちそうに大きい丸眼鏡がそれに拍車をかけていた。
もっとも目を惹くのは彼の服装だ。先ほど取り出した提灯にも見えるように、なんとも懐古趣味的な出で立ちをしていた。芥子色の半着に茶色い兵児帯を締めており、その下には膝丈のスパッツを履いている。草履、風呂敷、小物に至るまで和装で固められていた。駿が呆気にとられていると、少年は不思議そうに小首をかしげた。癖っ毛が揺れる。
「大丈夫ですか?やっぱりちょっと……びっくりしてます?」
「いや、大丈夫です。ありがとうございます。助けてくれて、ええっと、お名前は……。」
「僕は結城蛍といいます。結ぶ城に、ホタルと書きます。僕もお名前を聞いてませんでしたね。なんというんですか?」
「七瀬駿です。漢字は……。」
「へえ、じゃあ七瀬くんってお呼びしていいですか?」
「はい。……その、結城さん。」
「蛍と呼び捨てで呼んでください。一番慣れているので。——しかして、何ですか七瀬くん?」
「北大路駅って、どっちですか。」
蛍と名乗ったその少年は思わず吹き出して、潜ませた声ながらもころころと、おかしげに笑った。
「な、何で笑うんですか。その……越してきたばかりで土地勘がないんです。道に迷ってたら、こんなことになってしまうし。」
「あはは、いや、ごめんなさい。あんまりに真剣なもんだから、ちょっと頬が緩んじゃって。」
蛍は一つ咳払いをして言った。
「僕たちは年の頃もそう変わらないでしょうし、ため口でいいんですよ。七瀬くんみたいな人に敬語を使われるのは、逆になんだかむず痒いですし。」
「そんなこと言ったって、蛍、は敬語のままだし……。」
「あ、いま駄洒落言いました?」
「これは話の内容の上で仕方なく!」
「冗談ですよお。いいんです、僕の敬語は癖みたいなもんなので。」
「ならいいけど……。初対面の人に対してこの感じは、僕もむず痒いっていうか。」
「まあまあ、僕のことは末の末の後輩だと思ってください。それで、北大路駅に行きたいんでしたっけ。」
「そう。家に帰らなくちゃ。母さんにも夕飯までには帰るって言ってるし……。」
「おゆはんですか。それは大問題ですねえ……。と、言いたいところなんですけど。」
蛍は眉間にしわを寄せて、虚空に向かって小さくううんと唸ってから言った。
「多分このままだと、七瀬くんはおうちに帰れません。」
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