第3話 京都と春-3

夕方、駿は疲れ果てていた。出す書類よりも受け取る書類のほうがはるかに多かったため、行きよりも鞄が重い。念のためと持ってきた傘も結局無用の長物と化していた。ただでさえ長ったらしい説明なのに、慣れない方言のせいで余計に聞き疲れてしまった。

 説明を聞き終えたのが午後三時半ごろだっただろうか。その後、学校から歩いて十五分ほどの洋品店で制服の採寸をして、今出てきたところだ。日が暮れ始めている。もうこのまま帰ってしまおうか、と駿は考える。散策をして帰ってくると言った手前ではあるが、とにかくどっと疲れたのだ。重い荷物を早く肩からおろしてしまいたかった。雲行きも怪しい。雨が降る前に帰るに越したことはない。

そう考えて北大路駅に向かって歩き始めたつもりだったが、駅に着く様子がない。携帯電話の地図を起動してみるが、回線が混み合う時間帯なのか地図が全く読み込まれない。目印を探してみても、通学路には何もない上に、駅前のショッピングモールすらそう目立たない。景観維持のための規制で高い建物が作れないのだ。背伸びで周りを見渡したところで、そこには平家の屋根に切り取られた空と、やたら大きなカラスの群れが広がるばかりだった。

 駿は視界の端に看板があることに気づいた。看板には「廬山寺通り」と書いてある。下に書いてある地図を見るに、どうやら北大路駅とは反対に歩いてしまっていたらしい。幸い近くに大通りがあり、バスも停まるようだ。駿には路線図はさっぱり分からなかったが、一先ず乗っていればどこかの駅には着くだろうと考えた。そこからは電車の路線図を見て乗り継いでいけば良い。家まで遠回りにはなるが、ここから北大路まで歩いていくよりはましな気がした。

 看板のすぐそばには標識が立っていた。赤茶けた建物が並ぶ中、青と白のコントラストが少々浮いていた。表面に施された反射加工が西日を仄かな虹色に照り直している。長方形の板には寺院のアイコンと「北野天満宮」という文字が並んでいた。駿は思わずどきりとした。「あの」キタノテンマングウ、そして「あの」ヒガシムカイカンノンジ。思ったより近いところにあるものだ。無闇に近づかないようになんて言ったけれど、学校からこの距離じゃ一切近づかないなんてのは無理なんじゃないだろうか。駿はそんなことを思いながら、標識の矢印が向く先に目をやろうとした。


そのときだった。


 日が暮れた。この場合、一瞬にして日が暮れきった、というべきだろうか。夜が引き摺り下ろされてきたかのように、途端にあたりが暗くなった。ほんの一瞬前まで見ていた標識や看板は跡形もなく消えている。すぐそこに見えていた大通りも闇に呑まれて見えなくなった。気温は変わっていないはずだが、春の夕方の緩やかにじりついた空気はもうない。駿は思わず一歩後ずさる。靴の裏を通して伝わる感触は、舗装されていない地面のものだ。つまり、ここはさっきまでいた場所じゃない。じゃあここは一体……。そう感じたきり、身動きが取れなくなる。いきなり首筋に冷水を垂らされたような心地がした。

 街の喧騒はぱったりと止んでいる。そんな中、微かにコツコツ、コツコツ、と後方から音がする。何か固くて細いものがまばらに地面を叩く音だ。音は徐々に大きくなる。間違いなくその音——おそらく足音の主は、こちらに近づいている。否、一目散にこちらに向かってきている。もしかして、もしかして。駿がそう考えれば考えるほど、足音の輪郭が明確になる。逃げなければ。ここから動かなければ。そうは言っても前が全く見えない。何でもいい、何かないかと動く手がかりを探す。闇の中、遠くから線香の匂いがする。そっちは確かキタノテンマングウと、ヒガシムカイカンノンジ……。

 一瞬、あたりは完全な無音になった。足音が止まったのだ。すぐ後ろに何かがいる。温ったい空気、線香と、雨上がりに似た土の匂い。駿は足に生えた根をなんとか引き千切って、後ろを振り返る。


虚ろな眼が八つ、こちらを見下ろしていた。

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