第2話 京都と春-2


「そうです……。あ、ここってやっぱり、入ってはいけませんでしたか。」

「別に構いませんよ。むしろ廊下を走ろうとしていた事のほうが看過できませんね。」

「それは、その……すいません。あの、講堂の入り口って。」

「きみ、親御さんは?」

「今日は一人で来ました。親は引っ越し関係の手続きが忙しそうだったので。」

「へえ、しっかりしてるんですね。ところで名前は?」

「七瀬です。七瀬駿。……その、説明会に遅れちゃいます。講堂の入り口がどこか知りせんか。」

「ああ、それでこんなところにいたわけですね。案内しますよ、こっちです。」

「ありがとうございます。」

 駿は男性に着いてゆっくり歩きだす。しばらく歩いていると、おもむろに男性が口を開いた。

「七瀬くん、は京都は初めてですか?越してきたと言っていましたが。」

「いえ、小さい頃は京都に住んでいたんです。父の都合で東京に引っ越しましたが。」

「なるほど、カムバックということですね。京都に縁があったと。」

「カムバック……。まあ、そうですね……。」

 耳慣れない語感に首をかしげる駿をよそに、男性は滔々と語る。

「いいところですよ、京都は。学生時代を過ごすのにはもってこいだと思います。開けているけれども、お寺やら神社やら……有形のものに限らず、文化や土地の言い伝えなんかもそうですね。古くてよいものがたくさん残っていますから。若いうちにそういったものに触れられるというのは、とても貴重なことです。」

「はあ。」

 駿は父や祖父を思い出す。京都で生まれ育った人というのはこうもみんな京都が好きなんだろうか。

「この春休みも色々出かけてみることをお勧めします。きっと充実したものになりますよ。それとももうどこか行きましたか?」

「一昨日ですかね、北野天満宮って神社の横を通ったってくらいです。」

駿は自分でも少し驚いた。キタノテンマングウ。一昨日聞いたばかりだが何故だかするりと口をついて出た。何回も訪れた記憶が無意識下にまだあるのかもしれない。

「北野の天神さんですね。きっと学問成就のために連れて行ってくれたのでしょう。」

「いや、たまたま。ほんとうにたまたま通っただけですよ。」

「まあまあ、そこは楽観的に解釈しようじゃありませんか。」

 くすくすと笑った後、一呼吸おいて男性は声音を変える。さっきより間延びを抑えた、少し低い声だ。

「では、こんな噂はご存知ですか?街談巷説というか、最近都市伝説的に囁かれているのです。」

「都市伝説……。と言うとなんですか、オカルトの類いの……。」

「そうですね、所謂オカルトです。」

 話が長引きそうなことにいささか不安を感じる。かといってここまで踏み込んでしまうと、今から「もういいです」と突っぱねても感じが悪いだろう。おそらくこの学校の教諭か職員だろうし、遅刻してしまったなら気は進まないが「先生と立ち話をしていたら長引いてしまって」と正直に言い訳するしかない。――そんなふうに前向きに言い訳を考えるくらいには、駿は男の話に興味を持ってしまっていた。

「北野天満宮の中には小さいお寺があるんですよ。東向観音寺というんです。……ときに七瀬くん、能を観たことはありますか。」

「中学校の行事で一度見たっきりで、自分では……。」

「君みたいな年頃の人なら、それが普通ですよ。演目は覚えていますか?」

「名前は覚えてないんです、その、源氏物語の、生き霊が出る……。」

「『葵上』ですね。良いチョイスです。般若も出ますしね。」

 般若が出るから良いチョイス、というのもよくわからないし、話の先も見えない。つい疑問が口をついて出た。

「……なんで能の話を?」

「能の有名な演目に『土蜘蛛』というのがあるんですよ。若しかしたら見たことがあるかもしれないなと思いまして。だとしたら前提の説明がしやすいですから。」

「その、どういう話なんですか。『土蜘蛛』っていうのは。」

「源頼光という……まあ、京都でお化けの話をするとなると必ず名の上がる人物ですね。彼が重い病に罹るんですよ。どんな薬を使っても治らないんで弱っていたんです。」

「それって、今でいうどの病気なんですか。」

「さあ。高熱が出たと言ってましたから、もしかしたらただの風邪かもしれません。」

  男は苦笑しながらも楽しげに答えた。彼は駿と並んで歩いてこそいたが、全くこっちは見なかった。真っ直ぐ前を見たまま、うっそりと、しかし朗々とした口調で続ける。

「そしてある夜のことです。朦朧とした意識の中、夢枕に男性……いや、よく見るとお坊さんが立っている。坊主は頼光に語りかけます。具合はどうか、と。怪しく思った頼光が何者か訊ねると、お前を苦しめているのは私だ、と言って、糸を吐いて頼光を縛ろうとするんです。坊主の正体は妖怪・土蜘蛛だったんですね。」

「それで捕まっちゃうんですか、あと攫われたり……。」

「いえ、頼光は名ゴーストバスターでしたからね。寝床にあった刀で糸を断ち切りました。その場では取り逃しましたが、家来とともに後を追いかけて、きっちり倒しましたよ。」

「それで終わりですか。」

「これで終わりです。ずいぶんあっさりした話でしょう。」

「はい。もっと蜘蛛を倒すのに四苦八苦したりとか、あると思ってました。ヤマタノオロチの話じゃないですが、もっと工夫、みたいな。」

「これでも能の中では劇的な話とされているんですよ。話で聞くと単調に聞こえますが、動きが加わると見応えが出ます。演出も特殊ですから、印象も強い。」

「……で、噂っていうのはそのお寺に土蜘蛛が出る、みたいな話なんですか。」

「大方そんなものです。東向観音寺にはその土蜘蛛を封じたと言われる塚があるんです。ちゃんと「蜘蛛塚」と銘打ってありましてね。あれを悪ふざけで見に行って、石を投げたり塚に触った人間は蜘蛛に襲われて食べられちゃうんですって。」

「はぁ。」

 駿はどことなく拍子抜けした。真剣に聞いた割に、案外ありきたりで子供っぽい噂話だと思った。男が楽しそうに話すものだからつい入り込んでしまったが、巷談街説と呼ばれているものなんて大概こんなものだ。


どう話を切り上げようか迷っていると、男は駿の方を振り向いた。駿の耳の上——こめかみのあたりを伏し目がちに見つめながら話しかけてくる。

「聞いた話では、噂の上では名前が変わっているんですよ。元来は「土蜘蛛」でしたが、今は「鬼蜘蛛」という名前で広まっているらしいんです。変な話でしょう?元々土蜘蛛は原因不明の高熱が出る病に落とす妖怪でしたから、人を直接は襲いません。頼光の場合は特殊なケースでしたからね。彼が名うての妖怪退治人だったから、直接襲っただけです。」

 駿は別に変だとは思わなかった。噂なんていうものは曖昧で、人を伝うにつれて変形していく。少なくとも駿は、今までの経験からそんなものは当たり前だと思っていた。

「漫画とかの影響じゃないですか?「鬼蜘蛛」って、昔やってた有名なアニメに出て来ていたような気が……。通して観てはいないので、はっきり言えるわけじゃないですけど。」

男は伏していた瞼をぴくりと動かして、小さく驚いてみせた。

「それは面白い。「蜘蛛」という共通の要素から、「鬼蜘蛛」は「土蜘蛛」を取り込んで、史実という後ろ盾を手に入れた……、と。より知名度の低い「土蜘蛛」は「鬼蜘蛛」に飲み込まれたことで姿を消し、「鬼蜘蛛」の尤もらしさを補強する糧になったということですね。」

「いやあの、多分ですよ。そんな大仰な感じじゃなくて……。」

「ただでさえ根拠のない噂です。きみの持っている些細な情報だって、その根幹を揺るがし得る。——無根拠な噂ですが意外と怖がってる生徒も多くてね……。何か別の事件が潜んでいる可能性もあります、きみも蜘蛛塚には気安く近づかない方がいいですよ。」

「そうします。」

 会話と同時に男の足が止まった。目の前には外から見えた渡り廊下、その奥には大きな観音開きのドアがある。何組かの親子がドアの中に入っていく。床には半屋外の日が差し、靴下越しの指先が暖かかった。男性はひとつ息をついて言った。

「はい、じゃあここが講堂です。」

「どうもありがとうございました。おかげで遅刻せずにすみそうです。」

「それはよかった。それでは七瀬くん、またね。」

「はい。また、どこかで。」

 駿は男の後ろ姿を見送ると、指に引っ掛けていた靴を渡り廊下のコンクリートに置き、踵に指を入れて履いた。踵が全部入ったのを確認して立ち上がる。

 

 講堂に入ると、八割くらいの席は埋まっていた。駿より後から入ってくる生徒たちを見るに、どうやら一階にも入り口はあったらしい。舞台下倉庫のドアと混ざっていて見つけにくくなっていたのだろう。腕時計を見ると、説明会の集合時間からちょうど五分前だ。ずいぶん長く歩いたし、話していたように感じたが、元々時間に余裕を持ってきていた分それが丁度よかった。あの男が言ったように「楽観的に解釈」するならば、一人で来た駿を案じ、余っていた時間の暇つぶしに付き合ってくれていたのかもしれない。

 やっぱりあの人は先生だったんだろうか。改めて駿は疑問に思う。そうだとすれば、話の内容からおそらく社会科か国語の教師だろうか。自分が新一年生であることを知って「またね。」と言ったくらいだから、担任団の一人なのかもしれない。

 しばらくして、舞台袖からスーツ姿の恰幅の良い初老の男性が出てきた。学年主任か教頭だろうか。壇上のマイクの前に立ち、年の割に芯のある声で話し始める。

「皆様、初めましてこんにちは——。」

 ひどく訛った関西弁だった。それも「ん」を一段と高く発音する、祖父とよく似た京都訛りだった。

「あ、先生出てきはった。」

 隣の女生徒二人組がそう呟いてお喋りを止めた。壇上の男ほど顕著ではない、自然で生まれついてからずっと使っているふうな方言だった

そういえばさっきの男は関西弁で喋らなかった。ここでようやっと、駿は男の名前を訊きそびれたことを思い出したのだった。

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