取るに足らないフォークロア!

@qroqoo

第1話 京都と春-1

 京都は春だ。日本全国津々浦々、春だと言えばそれもそうだけれど、しかして京都は頭ひとつ抜けて春だ。真新しいファミリーカーに揺られながら、七瀬駿はそんなふうに思った。少しだけ窓を開けると温ったい空気に乗って花粉と線香の匂いがする。苦手な芳香剤の香りが少しましになる気がして、さらにもう少し開ける。目の前を塞ぐ塀をじっと眺めていると、父の充は何かに気づき、駿に尋ねた。

「お、駿は覚えてるか?」

「何のこと?」

「ここの神社だよ。北野天満宮っていうんだ。」

「……有名なところなの?」

ぽかんとする駿をよそに、母——瑞希は小さく笑う。

「そうかあ。まあ何回も来たって言っても、だいぶ小さい頃の話だものね。」

「ここは桜の名所でな。けっこう有名で、お前のおじいちゃんがよく連れてきてくれてたんだ。」

「へえ。全然覚えてないなあ。」

「まあ伏見稲荷や清水寺に比べたら地味かもな。由緒正しい神社なんだが……。」

 父と母はその神社にまつわる思い出話に花を咲かせ始めた。吹き込む風に隣で眠る妹の莉子が少し眉間に皺を寄せる。チャイルドシートは蒸れるのだろう。肘の内側にうっすらと汗をかいていた。

駿はキタノテンマングウ、と頭の中で思い回してみた。聞き覚えはあるがやっぱり来た覚えはない。なにやら大仰だなという他の印象はなかった。結局のところどうにもぴんと来なかったというわけだ。もう会話に加わるのは諦めて、新しい部屋のどこに机を置くかを考えることにした。なにぶん明後日には学校に入学関係の書類をもらいに行かねばならない。目まぐるしい転居ではあるが、引越屋の繁忙期である3月の上旬、この日にしか予約が取れなかったのだ。段ボールの片付けだけでも早く済ませた方が良いだろう。

 転居というのは案外ドラマチックでもなんでもなかった。引越しの準備や生活環境の変化についての実務的な煩わしさこそ感じたが、情緒的な揺れ動きは全くと言って良いほどなかった。祖父が亡くなったことをきっかけに京都に移り住もうと提案された際にも、駿があまりにあっさり快諾したもので両親が肩透かしを食らったほどだ。ことさら駿にはそうなるべき条件が揃っていたのかもしれない。

引っ越すにあたって、以前というか、つい昨日まで住んでいた東京に特に思い残すところはなかった。中学校卒業と引越しのタイミングが重なったために同級生と離れ離れになる寂しさもなかった。東京に生まれついたわけでもないので、古い知り合いもいなければその土地への思い入れもなかった。むしろ幼稚園に入るまでの生まれて三年間、祖父と両親とともに住んでいたこの京都こそ故郷と言えるかもしれないとすら思っている。戸籍上の本籍も伏見市にある。

 少なくとも駿は、東京には父の仕事の都合で一時的に住んでいただけというような感慨しか持っていなかった。かといって京都に住んでいた頃の記憶もほぼないものだから、京都に肩入れすることもできない。どちらにしろ土地に対する思い入れなんてものは持ち合わせていなかったのだ。


「あ、そろそろ二時じゃない?」

「そうだな。戻るか。」

「戻る?家ってこっちじゃないの?」

「新しい家はここから十五分くらい離れてるんだ。荷物のトラックが着くまでの暇潰しに走っておこうと思って。」

 土地勘が働かないものだから、いま地図上のどの方角に向かっているのかとか、どれくらいの距離があるのかなんてことは駿には全くわからなかった。新居も一度内見についてきたきりだし、周辺の街並みもよく覚えていない。

「せっかく近くまで来てたんだし、金閣寺にも寄ればよかったな。」

「また近いうちに来れるでしょ。家からも遠くないから休みの日にでも行こうよ。」

 大通りから少し細い道へ、さらにもう少し細い道へと車は進んでゆく。駿は白いスニーカーのつま先を眺めながら、車が多い割に道が狭いんだなと思った。


 京都市左京区、東山駅からおおよそ歩いて二十分。――岡崎に住所を移して二日が経った。提出する書類に何度も書かされるものだから、早くも住所は空で言えるくらい頭に入っている。京都では通りの名前を基準に住所を表すと聞いたのだが、それは碁盤の目が綺麗に揃っている中心街だけらしい。駿の家の住所は東京のマンションと特段違うわけではなかった。

新居が広いおかげで、荷解きは驚くほど恙無く進んだ。前まで住んでいたマンションに比べて部屋の数も広さも増えたので、ほとんどの荷物をならべきった後でも家全体がどことなくがらんとして見えた。

「じゃあ、行ってくるから。」

「大丈夫?ついていかなくて。」

「別に。書類もらって帰ってくるだけだし。」

「電車の乗り換えは?わかる?」

「大丈夫だってば。携帯もあるし。むしろ東京のが複雑だったでしょ。」

「傘は?持った?」

「持ったよ。なくても買う。」

 駿はスニーカーに踵をねじ込みながら、もう一度鞄の中身を確認した。筆記用具、クリアファイル、合格証書と入金証明の入った封筒。後は説明会の後、採寸に行って発注する制服代。ほとんどの生徒はすでに制服を受け取っており、本日の説明会も皆新しい制服で来る。駿は転校生枠として、特別に本日まで中学校の制服での参加が認められていた。卒業した学校の制服を着るのは変な感慨がしたが、それも仕方ないと受け入れていた。

「全部入ってた?じゃあ、行ってらっしゃいね。」

「うん。行ってきます。ちょっと散策してくるけど、晩御飯までには帰るから。」

 玄関の姿見でブレザーの皴を伸ばし、傘立てからビニール傘を引っこ抜く。新居のドアは前の家よりも重たい。


家の近くの停留所からバスに揺られること二十五分。学校の最寄駅、北大路へ降りた途端、駿は母と来なかったことを少し後悔した。駅前は真新しい詰襟やセーラー服に身を包んだ生徒と、少しよそ行きの格好をしたその保護者に溢れている。今から同じく手続きに向かうであろう生徒は皆、親子連れで来ていた。特に親を連れてこいとも言われなかった上、今日は書類の受け取りだけだと聞いていたから、てっきり生徒だけで来るものだと思い込んでいた。一人だけ制服が違うのも疎外感をさらに煽り立てる。

 ただ他の生徒が皆親子連れできているおかげで、北大路駅から学校までの徒歩十分は迷わずに済んだ。人の流れについて行けば自然と校舎が見えてきた。駅には小ぢんまりとしたショッピングモールがあるが、通学路である北山通は広いのに特段何もなかった。少なくとも高校生の気を引くような店はない。公立高校の立地なんてものは得てしてそういうものだが。

 駿は、これなら雨の日以外は自転車で通った方が良いんじゃないか、と思った。自転車があればここから河原町あたりの繁華街までも出ていけるし、交通費も嵩まず済む。竹刀の持ち運びだけが少し難点だが、背負って行けばなんとかなるんじゃないか。自転車通学の許可についても今日説明があるだろう。うちに帰って相談してみよう、と決めた。話し相手のいない通学路は、ゴールが見えづらいのもあってやたらに長く感じた。

 なんとなく校門を潜ったは良いものの、集合場所に指定された講堂の場所が分からない。それらしき建物はあるが、外周をぐるりと回っても入り口が見当たらない。駿だけでなくほかの生徒たちもそうであるようで、みなわら半紙のプリントを鞄から取り出して右往左往していた。どうしよう、とふと上を見上げると何か渡り廊下のようなものが見えた。それは本校舎の二階から講堂に向かって伸びており、講堂の同じく二階部分を囲むバルコニーと繋がっている。柵の奥には重そうな観音開きのドアがちらついて見える。きっとあれが入り口なのだろう。校舎の入り口は解放されているが、電気もついていなければ案内人もいないので、勝手に立ち入るというのも躊躇われる。しかし駿にとっては勝手に後者に立ち入って𠮟られることよりも、入学説明会に遅れることのほうが嫌だった。時間にかなり余裕は持っていたし、ここにいる人たちも後々気づいてこちらにやってくるだろうと考えて、校舎の中を通ってみることにした。講堂は土足で立ち入ってよいとされていたので上履きは持っていなかったが、校舎はさすがに土足厳禁だろう。駿は下足室で靴を脱いで手に持ち、靴下のまま歩き出した。

 校舎の中は薄暗い。廊下の両脇にある教室はきっと明るくなるよう設計されているのだが、廊下はというとすこぶる日当たりが悪い。深緑のリノリウムの床がそれに拍車をかけている。駿はまず二階に上がるために階段を探した。一人で歩く廊下は嫌に静かで、校舎のすぐ外にいる人たちの声はほぼ聞こえない。靴下だけになった足が床に擦れる音だけが響いている。三分ほど歩き回ってやっと階段を見つけ、二階に上がったはいいものの、今度は肝心の渡り廊下がどこにあるのかわからない。あまりゆっくりしていても、説明会に遅刻してしまう、そう思った駿が駆け出した一歩目、その時だった。


「きみ、説明会に来た生徒さんですか。」

 と、一メートルくらい後ろから声がした。駿が慌てて振り向くと、そこには男性が一人立っていた。クリーム色のタートルネックに紺のスラックス、胸のあたりまである黒い髪を右耳の下で括っており、アンダーリムの野暮ったい眼鏡をかけている。本人が細いのか服のサイズが大きいのか、はたまたその両方かもしれない。ダブついた服の中で体が泳いでいるような印象を受ける。レンズの奥では眠たそうなそうな切れ長の垂れた目がうっすらと微笑みをたたえていた。

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