第136話 幕間 賢者の残り時間
一鉄に大量の仕事を押し付けた後、儂は誰にも見られぬように聖樹の救護施設へと足を運んでいた。
「ごほ、ごほ」
救護施設の機能で肉体の疲労などは回復しているはずなのに乾いた咳が口から漏れ出てしまう。
重大な病気など患っていないというのに。
これが意味することを儂は既に知っていた。
なにせ全ての事柄を記している叡智の書がこの手には存在するのだから。
(まったく……どうにか残された時間で問題を解決するか、解決できるようにしておかねばいかんというのに)
残念なことに自分に残された時間はそれほど長くはないのだから。
そもそもこちらの世界に戻ってくる以前から体の調子は良くなかったのだ。
恐らくは老いた身で勇者一行として魔族や邪神との戦いに参加し続けたことの影響だろう。
またあちらの世界で叡智の書を使い過ぎた弊害もあるに違いない。
異世界での叡智の書の能力は大量の魔力の他に脳や肉体にも負荷が掛かるものであり、乱用すれば命を削ることになることも分かっていた。
それでもあの戦いを勝ち抜くために無茶をする必要があったのだ。
だから無理を承知で力を使って身体に負担を掛け続けた結果、この身は寿命を迎えようとしているのだった。
それも聖樹の救護施設であってもどうしようもない形で。
「七十年強か。まあ十分に生きた方じゃろうて」
現実世界でも異世界でも、この年齢になるまで生きられなかった人などがごまんといるのだ。
そんな彼ら彼女らに比べれば、ここまで生きてこられただけでも十分に幸福というものだろう。
それに五十の頃に最愛の妻も亡くしているし、子供もいなかったので家族などについては茜を除けば問題はなかった。
その茜も譲に託すことでどうにかなると信じるしかない。
(美夜が生きておれば良かったんじゃがな)
叶恵達が信用ならない訳ではないが、どうしても不安は拭えない。
何故なら叶恵や一鉄など、一部の帰還者達はどうも自らの命を軽視している傾向にあるからだ。
それには各々に理由があるのも知っているが、だからと言ってそれでは困るのがこちらの本音である。
これ以上、茜には自分以外の家族や親しい者を失う経験をさせたくない。
悲しいことにあの年齢で何度も何度もそんな辛い経験をしてしまっているからこそ、これからは幸せになって欲しいのである。
(一鉄の方はまだ儂でもどうにかなる。あいつは忙しくさせていれば余計なことを考えなくて済むからのう)
あいつは余裕が出来て何か考える暇を与えると、異世界で最愛の妻を失った過去を思い返して絶望に苛まれてしまう。
それによって自分自身を責め続けてしまう性分なのだ。
だからこそ必要以上に仕事を割り振るようにしている面もある。
勿論、自分がいなくなった時に役目を引き継いでもらうというのも本当ではあるのだが。
それになんだかんだ言って責任感の強い男だ。弟子や教え子が出来れば、そんな存在を置いて死ぬ訳にはいかないという風に嫌でも奮起するのは分かっていた。
(失ったものは取り返せないとしても、人は前に進まなければいかん)
言葉で言うだけなら簡単なことだが、それで伝わるとも思っていない。
だからこそ強引にでも他者との繋がりを構築させることで、そのことを奴には嫌でも自覚させるつもりだった。
それに一鉄だって儂からみればまだまだ若い。
それこそ自分の半分ほどしか生きてない若造ではないか。
「悪いが死ぬ順番は老人からと決まっておるからのう」
だから本人が嫌がっても一鉄には長生きをしてもらうつもりだし、そのために必要なことや自分が教えられるは全て伝授するつもりだった。
その点、叶恵に関しては扱いが難しかった。
何故なら彼女が現実世界に戻ってきた目的が、他の帰還者達とは大分毛色が異なるからだ。
叶恵が現実世界に戻ってきた理由。
それは育ててくれた祖父母の元に戻りたかったのと、自分を捨てた両親をその手で殺すためである。
だが幸か不幸か、そのどちらも叶わなかった。
何故なら叶恵の両親や祖父母は、叶恵が現実世界に戻る前に全員が何らかの形で死亡していたからだ。
年齢的に祖父母が死亡している可能性が低くないことは叶恵も分かっていただろう。
だけどまさか両親まで死んでいるとは叶恵も思っていなかったに違いない。
自分の大切な家族も、そして復讐しようとしていた身内も既にこの世に存在しない。
ならばどうして自分は戻ってきたのか。そして生きているのか。
良い意味でも悪い意味でも大切な人がいなくなってしまった叶恵が抱えているのは絶望というよりは虚無感が正確なのだろう。
その虚無があるが故に自らや他者の命を軽く扱えてしまう。
戦場ではそれが役に立つこともあるだろうが、いつかそのどこか自暴自棄な考えが仇となる気がしてならない。
(問題はそれを本人も自覚していて、それでも直す気がないところじゃな)
これは他人がどうにかできる問題ではない。
少なくとも関わりの薄かった自分では不可能だ。
それでも仮にどうにかできる存在がいるとしたら、それは譲において他ならない。
何故なら叶恵は――本人が意識しているかは分からないが――譲に対してはかなり強い関心を向けているのだから。
これまでの譲の経験を考えれば、一鉄のように絶望してもおかしくない境遇であり、叶恵のように虚無を抱えていてもおかしくない人生である。
異世界では友を失う経験をしながら邪神討伐に貢献したのに、その功績が認められることはなく役立たずと蔑まれていた。
その上で平穏を求めて全ての力を失ってもいいからと元の世界の戻ったのに、またしても大切な人を失いながら戦いに身を投じることとなったのだ。
普通ならどこかで心が折れてもおかしくないし、何度も自棄になっても良いくらいである。
(だけどそれでも決して折れぬその在り方が、叶恵からしたら不思議でしょうがないんじゃろうな)
その興味が恋や愛に発展するかは未知数だが、そうなってくれれば叶恵に生きる希望が生まれるかもしれない。
なので影ながらそうなることを祈るとしよう。
そうなったら生き返った美夜と揉めるとかいう面倒なことも有り得なくはないが、それはその時に生きている若者がどうにかすると信じて。
「さて、行くとするか」
救護施設のおかげで身体の怠さも消えた。
時間が経てば再発するのは分かっているが、一時でも消えてくれるのだからそれで構わない。
なにせ老い先短いこの身でも、やれることはまだまだあるのだ。
神の使いの中にいる裏切者の特定だって済ませなければ、それこそ安心して死ねないというものだし。
「とりあえず予定通りに譲と叶恵をアメリカに派遣して、他の動きがどうなるかを見るとするかのう」
帰還者の守りが減ったと見て魔族が日本を攻めてくるか。はたまた浮いた駒として譲や叶恵を狙うか。
更に良からぬことを考えている人間連中がどうするのかも把握しておきたい。
そんな計画を企てながら、儂は老骨に鞭を打つかのようにして救護施設を後にするのだった。
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