第7話 幕間 由里のヒーロー
兄が来てくれる。だからきっと大丈夫。
根拠のないその願いのような思いを頼りに私は身を隠している教室でジッと息を潜めていた。
どうして兄があのバケモノのことを知っていたのか。
本当に言われた方法を取っていれば助かるのか。
そもそも兄の言うことを真に受けていいのか。
その上で仮に兄が助けに来てくれたとしてもあのバケモノをどうするのか。
考え出せば疑問や疑念なんて幾つでも出てくる。
それでも私は兄を信じて待つ。
だって私にとって兄は子供の頃からヒーローだったから。
互いの反抗期の頃には喧嘩だってたくさんしたしずっと仲が良かったという訳でもない。それに五年近くも行方不明だったことで兄妹とは言え関わりが薄れてもいる。
だけど私は覚えている。両親と喧嘩して家出した私を一番に探して迎えに来てくれたのも、学校で軽いいじめにあった時も、本当に私が困った時に助けてくれたのは一番年齢が近かった譲お兄ちゃんだと。
その兄が必ず助けに行くと断言したのだ。だったらそれを私は信じる。
「助けて、お兄ちゃん」
だから私が祈る相手は神様ではない。私にとってのヒーローだ。
「なあ、本当に言われた通りにしてていいのかよ」
「けどジッとしてろって言われたし」
「だからそれを真に受けていいのかって話だろ!」
「だからって大きい声出さないでよ! あいつらに聞こえたらどうすんの?」
この場には私の他に七人いる。一緒に講義を受けていた私の友人の
小百合の彼氏の一つ年上の冬島圭吾とその友人の
後は逃げる時に偶然一緒になった名前も知らない二人の男子だ。
今、文句を垂れていたのは小百合の彼氏の冬島圭吾だ。
それを彼女の小百合が宥めている形である。
「やっぱり外が静かになってる。今なら逃げられるんじゃないか?」
それでもそんなことを冬島は言って来る。
確かに赤の他人からしたらこんな空前絶後の異常事態なのに訳知り顔でアドバイスして来られても信用できないのも無理ないのかもしれない。
でもそれなら一人で勝手に出て行けばいいのだ。
「逃げたければ逃げればいいんじゃないですか? 私は兄を信じてここで待ちます」
「信じるってそもそもあんなバケモノのことを知ってる奴がいる訳ないんだよ。それなのにお前の兄とやらは鼻が利くとかなんでそんなことが分かるんだ。そうだ、適当なこと言ってるに決まってる!」
そんなことを真っ青な顔で呟く姿は限界を感じさせた。そういう私だって余裕なんてこれっぽちもない。
いつあのバケモノが部屋の扉を開けて入ってくるのかと恐怖で体が震えて止まらないのだ。
「そうだ、きっと嘘に決まってるんだ。決めたぞ、俺は逃げる。今ならきっと逃げられるんだ」
「ちょっと待ってよ、圭吾。気持ちは分かるけど言われた通りここでジッとしておこうって」
「うるさい! お前も付いて来ないならここで奴らがくるまでジッとしてろ。俺はこんなところで追い詰められて殺されるんなて真っ平ごめんだ!」
そう言って圭吾はここから出ていくことを選んだ。
それにそれに追従して名も知らぬ二人の男子生徒も付いて行くことにしたらしい。
この緊急事態では女子ばかりのグループでいるよりも男子で固まる方を選んだようだ。
「銀城さんは行かないんですね?」
「……違う、行きたくても行けないんだ。怖くて足が震えて、立てない」
唯一付いて行かなかった男性はその強面で大柄な身体な割に情けない声でそんなことを言ってきた。
「楓達もいいのね? 私はお兄ちゃんを信じてるけどそれが正しいとは限らないのよ」
「それはそうだけど、あそこまで断言するってことは何かしらの根拠があるのかもしれない。由里も信じているみたいだし今はその儚い希望に縋ってみるよ」
「それに由里の自慢のお兄さんだもんねー。飛行機事故から奇跡的に戻ってきてからと言うものずっと私のヒーローが帰ってきたって言ってたしー」
剣道をやっているボーイッシュな楓が私に同意してくる。
いつもほんわかしている小柄な向日葵に至ってはこの状況でこちらをからかってきた。もっともそれが虚勢を張っているのは震える手を見れば分かるけど。
「ウチも由里を信じる。少なくとも逃げる時にウチを見捨てようとした最低の彼氏なんかよりもずっとそっちの方がいい気がするし」
この教室に逃げるまでの間に一度、小百合はオークに捕まりそうになったのだ。
幸いと言っていいのか近くにいた別の人が被害にあっている間に小百合は逃げられたが、その際に彼氏の冬島は助けようとはせずに真っ先に逃げ出していた。
しかもあいつが襲われている間に逃げるんだとまで言っていたのだ。
あんなバケモノに立ち向かえとは言えないけれど真っ先に恋人を見捨てて逃げ出そうとする態度はいかがなものだろうと思わざるを得ない。
少なくとも見捨てられかけた小百合の方は怒って当然だろう。
それでも仕方のない状況だったとここに来ても表面上は許していたのだが流石の堪忍袋の緒もここに来ては限界だったらしい。
「それにしても由里っちのお兄さんはあのバケモノのことオークとかいう名前で呼んでたよね? つーことはあのバケモノこと知ってたってことだよね? それってつまりどういうこと?」
「オーク。ゲームとかで良く出てくる豚の頭を持つモンスターのことだろうね。所謂空想上の、作り物の中の生物のはずだ」
「だけどそのモンスターがこうして現実にいて人を殺している。あの光景は絶対に作り物なんかじゃなかった」
私の言葉に皆がその光景を思い出したのか息を呑んで黙り込んだ。
いけない、別に空気を悪くしたい訳ではなかったのについそんなことを言ってしまった。
「……早く由里のお兄さんが来てくれないかなー」
「大丈夫。お兄ちゃんは絶対来てくれるから」
そうしてジッと私達は音を立てないようにその場でその時を待つ。そしてお兄ちゃんが到着する目安といっていた三十分が経過しようとしたその時だった。
ドタドタと誰かが走ってこちらに近づいてくる足音がする。
それがお兄ちゃんなのか、それともあのオークというバケモノなのか判別のつかない私達は身を固くしてその足音の主が到来するのを待つしかない。
だがその足音は迷いなく私達が居る教室に向かってきているようですぐにその答えは明らかになった。
「た、助けてくれ!?」
「圭吾!? あんた、なにやってんの!?」
「あのバケモノに追われてるんだ! 他の二人はやられちまった!」
扉とは逆側の私達がいる窓際まで逃げてきながら冬島はそう言う。
それはつまりあのバケモンがすぐ傍まで来ているということではないか。こいつが連れてきた形という最悪の形で。
案の定、閉めて鍵を掛けていた扉をいとも容易くぶち破ってバケモノが教室の中へと入ってくる。
その力強さは兄の言う通り半端なバリケードなど意味をなさなかったことだろう。
そしてその力があれば私達を肉塊に変えることも容易なのは嫌でも理解させられるというものだ。
だがだからと言って抵抗しないで死を待つなんてことはしない。
兄が来るまで私達は生き残るのだ。そうすればきっと助かると信じて。
「楓!」
「分かってる!」
兄の言うことを信じて用意していたそれを楓がバケモノの顔面に向けて投げつけた。
幸運なのか、それとも楓の運動神経の良さのおかげかそれは見事に命中して中身が奴の顔に掛かる。
「ブオオオオオ!?」
その中身は生粋の辛党の向日葵が常日頃から持ち歩いている数種類のスパイスが配合された自家製の特製タバスコだ。
開けただけで辛い匂いが周囲に分かるくらいの代物なので直接目や鼻にそれを受けた衝撃は計り知れない。
「ブオオオ!? ブモオオ!?」
さしものバケモンもその刺激物は効いたのか地面をゴロゴロとのた打ち回る。
そのままずっと転がってくれていれば良かったのだが、残念なことにそんな奇跡は起こらないようだ。
「ブモオオ……」
しばらくしてどうにか立ち直ったバケモノは見るからに怒っているのが分かる表情でこちらを見ている。
あれが敵意や殺意というものなのか。
今まで感じたことのないそれを私達は肌で感じていた。
「ひ、ひいいい!?」
その状況で恐怖に駆られたせいか私達の背後に逃げ込んでいた冬島がそんな情けない悲鳴を上げたと思ったら、
「は?」
突然小百合がそんな疑問を口にしながらオークの方に向かって倒れる形で前に出てしまった。
本人の意思での行動ではない。背後にいた冬島に押される形でだ。
「逃げろ! 小百合!」
楓がすぐに次のタバスコをバケモノに向かって投げるが今度は簡単に回避されてしまう。
そしてその重そうな身体からは想像できないほどの速度であっという間に前に出て床に手を突いている小百合に接近した。
「うわ、マジか」
その迫る死の気配を前に小百合は呆然とそう言うだけで精一杯のようだ。
そこにどんな思いがあったのか私には分からない。
その時に私にできたことは一つだけだった。
「助けて! お兄ちゃん!」
その声に応えるように窓ガラスをぶち破って、五年もどこかに行っていた私のヒーローが颯爽と登場した。
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