第109話 星淳蔵(農業)

 名まえは、天羽あもう佳之助かのすけというらしい。

 なんだか大時代な名まえだ。

 そして、この男が、あの目の覚めるような美人の父親なのだ。それとも、あの子は、このひとの孫娘だろうか。

 それをきいてみるくらいは、いいだろう。こっちの気もちも覚られまい。

 「あんたのところに、女の子いるだろ?」

 前を向いて言う。言ってみると、すらすらとことばは出た。

 「ああーっ?」

 佳之助はおうへいにききかえした。でも機嫌はよさそうだ。

 「昼、うちに挨拶に来てた」

 きれいな、と言いかけて、いや、それは言わないほうが、と思う。

 「礼儀正しい子だな、と思った」

 「ああ」

 酒でまっ赤になった佳之助の顔に笑みが浮かぶ。満足そうだ。

 「佳愛かあいっていうんだ。おれの娘だぜ。これからご近所だ。よろしくな」

 舞い上がるような気もちと、不安とが同時に沸いてくる。

 あの子のそばにいられる、という喜びと、いつも近所にいて、あの子への気もちを自分が抑えられなかったらどうしよう、という不安と。

 しかも、「かあい」なんて、なんて直球な名まえ!

 永遠ようおん町西一丁目の農業ほし淳蔵じゅんぞう氏は、どう言ったものか、迷った。

 でも、名まえをめるくらいは、やっぱりいいだろう。

 「佳愛さんって、いい名まえだね」

 「おう! ありがとよ!」

 言って、隣の客、天羽佳之助は、右腕をカウンターの上について、満足そうに笑った。

 「嬉しいこと言ってくれるじゃないかぁ!」

 そう言って、まだ酒が残っている猪口ちょこにぎりぎりまで酒を手酌てじゃくでつぐと、口もとに持って行って、上を波立たせながら、ちびっと酒を飲んだ。

 ああ、さすがにペースが落ちてきたと淳蔵氏は安心する。

 「でもなあ、佳愛はなあ、かわいそうなやつなんだ。いや、冗談じゃなくて、かあいそうなやつなんだ」

 そう言って、すすすっ、と飲むが、あまり減らない。

 「あんたは知らないだろうけどな、甲峰こうみねには搾取さくしゅ階級と被搾取階級があってな」

 佳之助は難しいことばを使った。

 なんだかよくわからないが、黙ってきく。

 「おれたちは被搾取階級のほうなんだ。で、うちの佳愛は、おれが言うのもなんだが、成績も一番、運動も一番、学校でもすごい人気者でな」

 「だろうな」と言いそうになって、止める。でも、淳蔵氏がどう言っても、この佳之助はしゃべり続けただろう。

 「でも、その搾取階級の娘が同級生だったんだ。そうするとな。学校ってやつは、実力主義で採点すればいいようなもんじゃないか。それを、成績の一番もその搾取階級の娘、運動の一番もその搾取階級の娘、あと生徒会長とかもそいつだ。そうやって佳愛はずっといやな目を見させられ続けてきたんだ」

 そうなのか!

 淳蔵氏の体の中に、穏やかではない熱さが沸いてくる。

 ガラスの猪口にかん酒を注いで一杯、それで足りなさそうだったので、もう一杯。するとなくなったので、

「つん子さんもう一本つけておくれ!」

と言うのももどかしい。

 佳之助はそのまま話を続ける。

 「でも、悪いことはできねえもんだなあ」

 「どういうことだ?」

 「その搾取階級の娘、よお、何かちやほやされすぎて、舞い上がっちまったんだなあ……。高校のときに、同級生の男の子に手ぇ出して、駆け落ち、行方不明。それでじいさんがくたばったときにも帰って来なかったそうだ。で、その件が響いて、家は破産、一家は離散。そぉれはそれで、不憫ふびんなんだけどよお!」

 そう言って、佳之助は顔を上げた。

 口を結んで、何かをこらえているようでもある。

 だが、その搾取階級の娘が消えなければ、あの美しい佳愛さんはどうなっただろう?

 いま、現実にそうなっているように、美しく、明るい女性には、もしかするとなれなかったのかもしれない。

 「何、そんな同情は禁物だ」

 淳蔵氏は、言って、つん子さんが出してくれた、ぬるい燗を自分の猪口に注いだ。

 「水に落ちた犬は徹底的に叩けってな。世のなかのルールってのは、そんなもんさ」

 いや、ちょっとぬるすぎるような気もする。

 思わず顔を上げると、つん子さんは、なんだか難しい顔をして淳蔵氏を見下ろしていた。

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