第102話 堀川龍乃(中学生)

 その「玉藻たまもひめ首くくりの松」で休んだあと、また全力で、でも今度は正流せいりゅうに前を走ってもらって、岡下おかしたまで戻ってきた。

 「じゃ」と、永遠ようおんの境内に入る正流と別れ、龍乃たつのが家に到着したとき、まだ店は開いていた。

 店の前には若い女の人が来ていて、お母さんと何か話していた。そのひとが乗ってきた自転車も店先に置いてある。

 そのまま黙って家の裏に自転車を入れようとしたが、お母さんと話していた女の人がこっちを向いてにっこりと会釈えしゃくしたので、龍乃も元気に

「こんにちは」

と言ってしまった。時間としては「こんばんは」かも知れないが、まだ明るい。

 それでお母さんも気づいてしまった。

 「ああ、龍乃! やっと帰って来たの」

 お母さんが言う。

 「でも晩ご飯前だよ」

 立派に口答えする。お客さんを相手にしているときに怒ったりもしないだろう。

 「それはいいけど、全身、汗だらけじゃないの! 水に落ちた犬みたいよ」

 犬なのか……?

 たぶん髪の毛が逆立ってそこから汗がはね飛んでるから、毛むくじゃらの犬みたいに見えるんだろうけど。

 「うんー」

 言うとしたら、暑かったんだから、だろうけど、言っても意味がなさそうだ。

 それに、あの玉藻姫首くくりの松のところで休んで、だいぶ汗はひいたと思うんだけど。

 「先にお風呂わかして入りなさい。もちろんちゃんと着替えるのよ」

 「はぁい」

 なま返事して、自転車を押して裏に回ろうとすると、相手の女の人が笑って軽く手を振ってくれた。

 もういちどお辞儀する。

 「お嬢さんですか?」

 「はい、もう、元気だけが取り柄の……」

 べつに気を悪くしたりはしない。事実だから。

 その元気の限界が、今日、試されたけど。

 自転車を押して永遠寺との塀のあいだを通り、波打ちビニール板の下に置いてスタンドを立てる。

 そういえば、てるさんのところも庭の上にビニールか何かの屋根があった。

 でも、あの高級さとはぜんぜん違う。うちのは、屋根が切れたところにビニール板を押し込んだだけで、斜めにずれてるもんな。

 古い家だ。

 いままで、比較する相手が正流のところ、つまり永遠寺だったので、気にならなかったけど、さっきのてる美さんの家と較べれば、ずいぶん古いと思う。

 自転車を置いてまっすぐ上がれば、右が風呂場、正面がトイレで、左が母屋おもや勝手かってぐちだ。

 まず風呂場に行く。昔からのお風呂場で、二‐三人でいっしょにお風呂に入ってもだいじょうぶなくらい広い。

 それだけ、かすのには時間がかかるのだが。

 ガスの火を入れて、母屋に戻り、二階に上がろうとすると、

 「ああ、今日は急にご無理申し上げて申しわけありませんでした」

という声がする。あの女のお客さんが帰るところらしい。

 お母さんが言っている。

 「ええ。じゃあ、いまのあの子の部屋の隣で。いいんですよ。ぜんぶいてますから」

 何かよくない予感がした。

 うちの部屋の隣で何をするつもりだろう?

 隣で何かやられると、畳に寝そべってゲームとかできないから、いやなんだけど。

 でも、お客さんのところにわざわざ出て行って確かめるのも子どもっぽい。

 龍乃はそのまま二階の自分の部屋に上がった。干してあったバスタオルを取り、上半身裸になって念入りに汗を拭く。

 たんすからTシャツを出して、それに着替える。それにもすぐに汗がみてきた。

 さあ、ズボンも替えないと、と思って、畳の上に座り、まず靴下を脱ぐ。

 靴下を脱いで、ぺちゃっとおしりを畳にくっつけて、座る。

 なんか、立つ気がしない。

 立って、ズボンをいつも家で着ている赤い半ズボンに穿き替えて、と思うのだけど。

 その半ズボンは机の前の椅子の背に斜めに掛けてある。

 手を伸ばしても、畳一畳の短いほうだけ距離がある。

 もうちょっとこのままぺちゃっとしてていいか。

 汗がまた流れる。

 手に持っていたバスタオルで首のところをぬぐう。拭っている途中で手が止まる。

 バスタオルを半身にかけたまま、龍乃の体は、何かに引っぱられるように、畳の床へと吸いつくように崩れていった。

 大きいバスタオルを右腕で抱いて、タイトなデニムのズボンをまた穿いたままの足を揃えて、きれいに折る。

 そのまま動かない。

 やがて寝息を立て始めた。

 夏の長い一日はやっと暮れて、外はようやく暗くなり始めている。

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