第101話 三善結生子(大学院学生)[3]

 先生は前を向く。

 説明なしでいきなり飛ばすかな、と思ったが、先生は、ちらっ、と結生子ゆきこのほうに目をやる。

 目が合ったので、「こんなときに仕事を増やしてる余裕なんかあるの?」というメッセージを結生子はその視線にのせていっぱいに送ってやった。

 先生が言う。

 「わたしの知り合いの友だちのおばあちゃんの、そのまた知り合いが、昔から住んでた家から引っ越すって、家、整理してたら、なんか押し入れの奥のほうからよく知らない文書が何ぱこも出て来たんだって。置く場所もないし捨てるっていうのを、その子がみみにはさんで、急いで連絡してくれたんだけど、若い人たちが止めたってきいてくれるかどうか、ってところでね」

 「ああ!」

 考えが百八十度反転した。

 結生子にも覚えがある。

 結生子の家には大きい土蔵どぞうがあり、そこに、たぶん江戸時代からの文書がたくさんあった。それは、表装ひょうそうされて掛け軸になっているのもあったし、じてあって無造作にほかの箱に上に投げ出してあるのもあった。そんなのが、扇風機とか、ストーブとか、庭作業の道具とかとまじって、いっぱいあったのだ。

 しかし、家が破産し、家もその土蔵も手放さなければならなくなったとき、その文書はぜんぶ捨てられてしまった。結生子はそのとき家にいなかったし、いたとしてもとても口を出せる立場になかった。

 だいたい、そのころの結生子はその文書の価値は知らなかった。あれが貴重なものだと知ったのは、この千菜美ちなみ先生に最初に出会ったときのことだった……。

 結生子のばあいは破産だったから残らなかったのも当然、とは絶対に言わない。残っていてほしかった。

 まして、破産とかいう大事件でないのなら、なおのこと、その文書は残ってほしい。

 学問的に貴重な資料だから、とかではなく、いや、それもあるけれども、それより前に、かわいそうなのだ。

 だれにも気づかれず、時間の流れに耐えてきた史料というのが。

 それを救うために必要なのなら、先生にはすぐにでもその場に行ってほしい。

 「ここで下ろしてもらっても、わたし、岡平おかだいらまでならたどり着けますけど」

 道は知っている。

 最悪、歩いてでも、明日の夜明けまで、いや、たぶん夜遅くには着けるだろう。

 「ええ。でも」

と、先生は言って、背筋を伸ばした。

 「目的地まで行ってから高速乗ったほうが早い。だから、着いたら、結生子ちゃんと荷物置いてすぐ出ちゃうから」

 先生はスタートダッシュとかはしなかった。

 さっき大学から出たときよりもずっとゆっくりと加速していく。いらいらとかしないで、慎重に車を進めている。もう信号待ち時間にCirrusシラスから何かを引っ張り出してきて読んだりもしない。

 何度めかに信号待ちで停まったところで、先生は自分のスマートフォンとタブレットを、まとめて結生子に差し出した。

 眉を平らにしてじっと結生子の目を見て、言う。

 「お願いね」

 「はい?」

 「わたしの分身だから」

 何それ?

 「どういうことですか?」

 「リンクとか画像とかぜんぶ入ってるから、向こうから何かあったらここに連絡するから。暗証番号は知ってるよね?」

 「Cirrusシラスといっしょですね?」

 1073。「千菜美」を「千、七、三」と分解した数字という。

 「うん」

 「はい……」

 何をするつもりか、もう一つ、よくわからないのだけれど。

 「それと」

 横の歩行者信号が点滅し始めて、もうすぐ信号が変わりそうだ。先生は前に目を上げた。

 そして、言った。

 「美々みみちゃんからの着信は、徹底的に完全に断乎だんことして無視して」

 そういえば、小野寺おのでら美々先生に何かややこしいパーティーに誘われていたのをすっぽかして、ここに来たのだった、と、結生子は思い出す。

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