第99話 三善結生子(大学院学生)[1]

 自動車を道の脇に停めたまま、先生はさっきのタブレットを出す。

 最初に出て来たのは結生子ゆきこのレポートだったが、もう何の関心もないというように閉じてしまい、しばらく待って、別の文書を開いた。

 写真だ。

 暗くて、あんまり写りはよくない。

 何かの文書を写した写真らしい。紙に墨でと書いてある。

 先生は、それをぐいと結生子の前に突き出して、言った。

 「ねえ、結生子ちゃんねえ、これって、明治以後の文書だと思う? それとも明治より前だと思う?」

 「へっ?」

 そんなことを言われてもわかるはずがない。

 文書がきっちり楷書かいしょで書いてあるか、よほど時間をかけるかでないと、結生子はまだ手書き文書は読めないのだ。

 岡平おかだいらの手書き文書は卒業論文の前に読んで、内容は頭に入っている。でも、それは、三年生のころから「これが読めないと卒業論文なんて書けないわよ」と言われ、先生にも手伝ってもらいながら、ほんとに涙を何度も流して読んだのだ。

 それで、文書の書かれた時期なんて……。

 「いや、わたし、まだそんなのわかりませんから」

 「結生子ちゃんがどれぐらい読めるかぐらいわたし知ってるの! それはわかっててきいてるの!」

 先生はいらいらしている。

 「わかってたら、きくな!」という反応ができる雰囲気ではない。

 「わかりません」もだめだ。

 でも、見事なまでの草書で、芸術的価値はあるのかも知れないけど、ぜんぜん読めない。

 「明治以後かな、って思いますけど?」

 「なんで?」

 わからないと言ってる人間に「なんで?」とかきくなよ、もう。

 「なんで」のずっと以前のところでわからないから、わからないのだ。

 でも、そう言えない雰囲気なので、答えを何とか思いつく。

 「なんか、こう、手本があって、それを筆で写してるような感じが」

 結生子は自分で言って「ほんとか?」と思ったけれど。

 「よし」

 なぜか先生は力強くうなずく。

 「で、次は?」

 指で、ぴょんとスクロールする。

 こちらは、さっきより暗い色の紙だ。

 書いてあるのはごつごつした字体の漢字仮名交じり文で、ところどころ墨をつけたままぼてっと筆を置いたらしく、墨が大きく広がっている。

 字は、はっきり言って、下手だ。そして、さっきのと逆に、こせこせしたところがない。それで

「江戸以前だと思います」

と言うと、先生はまたうなずいた。

 「じゃ、次」

 今度はさっきより白っぽい紙だ。

 字は崩れてはいるけど楷書で、結生子でもがんばれば読めそうだ。

 その写っているところは、雨がやまないので、川の水がどうこうとか、さとの住民がどうこうとか、そんな感じらしかった。

 江戸時代のようだと思うけど、雨が降って川が増水して、という話題は、なんか最近の天気予報のようでもある。どっちの時代でもありそうだ。

 「うーん、あの、境界線ぐらいのところで」

 クイズやテストではないのだから、その答えでもいいだろう。

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