第96話 三善結生子(大学院学生)[3]

 着信は岡平おかだいら市教育委員会の横川よこかわ博子ひろこさんからだった。

 「永遠ようおんの門前で前に民宿をやっていた堀川ほりかわさんというところがOKしてくれそうです。正式に取れたらまた連絡します」

 岡平に行ったあとの宿泊場所のことだ。

 調査を依頼した博子さんも、まさか今日じゅうに先生が来るとは思っていなかったらしい。まあそれはそうだ。それでもすぐに手配をしてくれた。

 結生子ゆきこが子どものころは岡平にも泊まるところはまだあった。

 結生子の生まれた村にもリゾートホテルというのがあって、にぎやかだった。

 しかし、いま、岡平にはホテルが一軒しかない。しかも、それは、結生子が二度と会いたくないと思っている親の家のすぐそばなのだ。

 まして、岡下おかしたには、ホテルも旅館もないはずだ。

 岡下に泊まるところを確保してくれれば、岡平の街にも行かなくてすむし、調査の場所にも近い。永遠寺の門前なら、その事故現場までたぶん五分もかからない。

 ほっとする。

 運転している先生の横で気分をゆったりさせて、助手席に体を伸ばした。

 そこに電話の呼び出し音が鳴り、結生子はまたどきっとする。

 自分の電話ではない。先生のだ。

 まさか運転しながら電話を取ったりしないだろうな、このひと!

 でもするかな? 信号待ちで院生のレポート読んだような人だから……。

 でも、先生は不愉快そうに眉をひそめて速度を落とし、前後を確認して車を左に寄せた。

 結生子はほっとする。

 きちんと車を停めてから、まだ鳴り続けているスマートフォンを引っ張り出し、電話に出る。

 「はい。大藤おおふじです」

 電話の主はだいたい推定できる。さっきの美々みみ先生だ。

 パーティーに来るものと思って待っていたら、なかなか来ないので、催促電話か、お叱りの電話か。

 ところが、様子が違う。

 「ああ。うん。お久しぶり。……元気よ、うん、元気」

 結生子が困るくらいに元気だね、うん。

 緊張はしているが、美々先生に応対している様子ではない。

 だいたいさっき逃げてきたばかりで「お久しぶり」はないだろう。

 まあ次に会ったら百年目でお久しぶりかも知れないけど。

 「はい。それで? ……うん。いや、もちろん覚えてるけど……うん。あのやかた跡の女の子でしょ? うん。お屋敷っていうか、おっきい家で、桃の畑とか梨の畑とか持ってる。うん。そう。そう。それで? うん…………うん…………うん……うん。はい。……はい。ああ、そういうことね……? それって、わたしがここから捨てないでって言っても、通じないよね?」

 「捨てないで」って、なに、その安っぽいドラマみたいなせりふ……。

 でも、この先生に「捨てないで!」で言われたら、どうだろう?

 それでも先生を捨てる勇気のある男か女かは、いるだろうか。

 結生子なら、捨てない。捨てたらあとが怖い。

 結生子ぐらいに因業いんごうを積んだ女にそう感じさせるのだから、この先生はたいしたものだと思う。

 「いや、知らせてくれてありがとう。うん。いや、明日からわたしも調査だから、いつ時間が空けられるかわからないから。うん。それで、しばらくそこにいてくれる? っていうか、こっちからの電話とれるようにしててくれる? で、写真って、すぐにCirrusシラスに上げて、うん、わたしのとこ。入りかたは知ってるのよね?」

 Cirrusシラスというのはインターネットのクラウドサービスだ。そこに先生が持ってるサイトに、授業の関係の文書や研究関係の文書はぜんぶ置いてある。いま結生子の鞄に入っている見崎みさき家文書と加幡かばたそんゆう文書とほかいろいろも、そこからダウンロードしたものだ。さっき先生が結生子のレポートを読んでいたのも、たぶん、そのCirrusシラスのページからダウンロードして読んでいたか、ダウンロードしないまま直接開いて読んでいたか……。

 はあ?

 タブレットで結生子のレポート読んでたってことは、先生、Cirrusシラスの文書直接読むんじゃん!

 なんでわざわざそこにある文書を院生にダウンロードさせてコピーさせたの持って来させるのかなあよくわかんないなあ!

 「……うん。三分で検討するから、ちょっと、三分後に電話とれるようにしといて。いったん切るから」

 ああもう!

 結生子は舌打ちしたい気分だ。前に先生の前で舌打ちして下品だと言われたことがあるから、しないけど。

 一つの仕事に向かってる途中に、また一つ仕事を増やす……!

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