第95話 三善結生子(大学院学生)[2]

 先生が言う。

 「学部生に示しがつかないでしょ? とくに瑠里るりさんとか」

 「はい?」

 なんで、とくに瑠里さん?

 「瑠里さんは大学院志望よ。社会人で大学院まで行った学生の先輩として、結生子ゆきこちゃんがしっかりしないといけないんじゃないの」

 ああ、やっぱり、瑠里さん、大学院来るのか……。

 もともと、製薬会社の、というより化粧品会社の企業の派遣研究者で来て、化粧の歴史とか調べていた。それが、何があったのか、ともかく一年で会社に帰るくらいなら、会社を辞めて研究を続けると言って、学部生として大学に入り直した。

 瑠里さんは大学の薬学部を出ていたので、制度上はいきなり大学院受験もできた。でもそれではついて来られないから採らないと千菜美ちなみ先生が言ったら、社会人入試を受けて学部から入り直したのだ。

 千菜美先生も化粧品会社で働いていて、そこから大学院に入ったひとなので、千菜美先生への親近感があるのかも知れない。

 日本史研究室第一の千菜美先生ファン……。

 っていうか、自分が社会人学生の先輩?

 瑠里さんの?

 それはまあ、「社会人」はやったけど……。

 勘弁かんべんしてよ……!

 「でも、まあ、勢いで書いたみたいなところはあって、もうちょっと表現考えてよねってところがあったり、引用ちゅうの形式が統一されてなかったり、おんなじことを何度も書いてたりするけど、自分の考えることをなんとかわかってほしい、っていう情熱は感じたわ。そういうところはいいレポート。そこは手本になると思う」

 はあ。

 められてるのかどうかわからないけど、「いいレポート」かどうかは別として、だいたい自分の感じたとおりだ。註の形式もあとで統一しないと、と思っていた。

 書くほうも慌てて書いたのだけど、よくこんな短い時間で読んでくれたな、と思って……。

 ……ちょっと待て!

 なんでそんな指導ができるんだ、この先生?

 「先生、そのわたしのレポート、さっき大学出る前に提出したやつですよね」

 「そうよ。だってなかなか出さないんだもん。いま読むしかないじゃない?」

 被害者意識をたっぷりにじませて先生が言う。

 まだ締切前なんですけど。それどころか、全受講生のうち最初の提出なんですけど!

 いや、それより。

 「いつの間に読んだんですか?」

 そんな時間はなかったはずだ。ずっと車を運転していたのだから。

 どこか異空間にワープして読んででもいないかぎり……。

 先生はちょっと首をかしげて運転しながら答える。

 「さっきから信号待ちのたびにちょっとずつ読んで、いま読み終わったところだけど?」

 は……?

 はい?

 「いや……そ、それ……」

 できるだけ平静に言おうと、軽く深呼吸してから、きく。

 「さっきから、信号待ちのたびに、なんかスクロールしながら見てたのって、ひょっとしてそれですか?」

 でも声は張り詰めていた。

 「ひょっとしなくてもそれよ」

 運転しながら、平気でそういうの答えないで……!

 「運転するときには、運転に集中してください」

 まあ、自分で自転車に乗ってるときに集中してるかというと、あやしいけど。

 「だって結生子ちゃんがレポートなかなか出さないからこうなるのよ」

 またねる!

 運転するときにはもうちょっと慎重になってほしいと思うのだ。

 十五年前に、中世荘園の「しき」の実態と「職」の体系という概念のズレとかいうテーマにいち早く気づいていたすぐれた研究者なのなら、なおさら。

 しばらく、会話が途切れる。

 そのほうがいい。いまみたい会話は心臓に悪い。それも何重にも。

 結生子は深呼吸した。

 夏の太陽もようやく傾いて、横の窓から日の光が入るようになってきた。

 まあ、あの時間で、キーボードを叩く指を絶対に止めないということにして勢いで書いたのだから、「情熱を感じるいいレポート」と言ってもらえれば、それでいいのかな。

 そう思ってまた息をついたとき、結生子のスマートフォンが振動して、メッセージの着信を知らせる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る