第94話 三善結生子(大学院学生)[1]

 自動車事故で死ぬなんていやだからね!

 そんなので、日本史学界の貴重な頭脳を、そして、日本中にお呼びとあらば即参上を貫いている貴重な行動力を、そして、何歳なのか知らないけどいつまでも色っぽい貴重な妖艶ようえん美女を失うのは、勘弁してほしい。

 じゃあ、その昔は「苦界くがい」と呼ばれた世界で因業を積んできた自分は死んでもいいかというと、それも絶対にいやだ。

 つまり、絶世の美女のお姫様だって、絶世の美女の奥方だって、死ぬなんてことは絶対によくないのだ。

 じゃあ、真正Sの悪家老はどうだろう?

 死んだほうがよかったのだろうか。

 たしかに、その行稚ゆきわかという若殿が殺されたあとも生き残ってこいつが権力をふるい続けていたとしたら、岡平おかだいら藩はもっとたいへんなことになっていただろう。こいつがもっと早く死んでいればお姫様も悲惨な死にかたや殺されかたをしなくてすんだ。でも……。

 いやいやいや。

 言いたいのは、信号待ちで止まってるときにタブレットで一心不乱に何か見るとかいうの、やめてほしいのである!

 自分は止まっていても、どこかから暴走車が突っ込んでくるかも知れない。信号が変わっても気づかず、後ろから信号が変わると思って見切り発車した車に追突されるかも知れないのだから。

 だから、信号が青になって、先生がおもむろに車を発進させたときには、結生子ゆきこはほっとした。もちろんもうタブレットは見ていない。

 道は海沿いを南に向かっている。

 走り出すと、この先生は、基本的に安全運転で走ってくれる。だから、それは安心なのだけれど。

 「結生子ちゃんね」

 運転しながら、つまり、前を見たまま、先生は硬い言いかたで言った。

 「はい」

 助手席の結生子は、何を言われるかわからないので、やっぱり硬く答える。

 「中世荘園の「しき」のあり方は荘園ごとに多様だから、「職の体系」って概念を当てはめるには概念の整理が必要だなんてことはね」

 「はいっ?」

 先生がちらっと横を見て、また前を見る。

 いや、運転するときに前を見ているのはよいことだ。

 それがさっきやっつけ仕事で書いて慌てて提出した自分のレポートへのコメントだと言うこともわかる。

 しかし、なんでいきなりこんなところで指導が始まるのだろう?

 「でたらめでしょ?」とか言われるのだろう。そう言われるのはわかっていて書いた。わかっていて、あえてめちゃくちゃな論理を書いてみたのだ。

 「そういうのね、わたしが十五年も前に『中世荘園像の再構成』で書いたことでしょう? 読んだの?」

 「はいっ?」

 何それ?

 「何をですか?」

 「だから、わたしの本、読んだの?」

 「あ、いいえ」

 軽く返してはまずい、ということに、言ってから気づく。はたして

「結生子ちゃんねえ」

 先生は運転しながらねちねちの説教モードに入ってしまった。

 「ゼミの最初に参考文献リスト配ったでしょ? 見たぁ?」

 こうなったら、つきあうしかない。

 「見ましたけど」

 「だったら、リストに載ってる主な文献は読みなさい。その分野の基本文献はもちろんだけど、あと、自分の指導教員の文献ぐらい」

 「はい……」

 その景気の悪い答えに、先生がまた横を見る。今度はちょっと長めに。

 とはいえ、いまのになま返事以外のどんな返事ができたというのか?

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