第93話 星淳蔵(農業)[3]
隣の客が
「つん
それに応じて
「つん子と呼ばれています。
そう言って、その顔も体つきもまんまるなつん子さんが、酔っ払いに軽く頭を下げる。
「え?」
淳蔵氏は驚いた。
「
「ああ。坂上は前にこの店をやってた人の苗字でね」
「前?」
知らなかった。
そうは言っても、ここは、四十年近く前に新装開店し、では寄ってみようか、と淳蔵氏が初めて来たときから、つん子さんはこの店にいたのだけど。
当時からはち切れるようだったが、当時は元気さがはち切れるようで、この小さい店でそんな大きい声出さなくても聞こえます、というぐらいの大声でお客からの注文を繰り返していた。
いまは、落ち着いたぶん、太って服がはち切れそうだ。色の落ちた小さいえび色のポロシャツを無理に着ることなんかないのだ。
「だって、つん子さん、開店のときからいたでしょ?」
淳蔵氏が腰をかけると、干し大根のお通しと割り箸を出してくれる。
「ああ。あの頃、奥のほうの台所に、なんかもさーっとしたひとがいたでしょ? なんかレスラーのなり損ないみたいな、おっきいひと。まあほんとにプロレスラーになろうとして根性が続かなくて帰って来たっていうひとなんだけどさ」
「ああ、白い服着てた男の人?」
「うん。あれがここのもともとの店主でね、わたしのひとつ上。
「そうだったのか」
横の酔っ払いは、
「で、そのケンちゃん、どうしたの?」
あの人がいたのは、何年ぐらいだろう? 十年前には、いや、もっと前に、もういなかったと思うのだが。
「かわいそうにさ。高速下りたすぐの一般道で、まだ高速走ってるつもりだったのかねぇ。ぶっ飛ばして、赤信号に進入して、横断歩道で歩行者よけ損ねてさ。よけるのはよけたんだけど、スピンして向こうの
「立派なもんじゃないか」
隣の酔っ払い男が、いきなり少ししわがれた声を出した。
「人を助けようとして自分が犠牲になったんだろ? たいしたもんだぜ」
言って、ようやく最後に残った冷酒をくっとあおる。
「ありがと」
つん子さんは酔っ払いに笑って見せた。いい笑顔だと星淳蔵氏は思う。
「そう言ってもらえて、ケンちゃんも喜ぶでしょうって」
そう言って、つん子さんは、淳蔵氏に注文のぬる燗と同じガラスの猪口を出し、肉豆腐を出し、二人分の取り皿を出してくれた。
いつもは瀬戸物の猪口を出してくれる。今日は、この酔っ払いと揃いにしたのだろう。
「さ、先輩。食いましょうぜ」
「つん子さんのこれ、うまいんだから」
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