第92話 星淳蔵(農業)[2]

 れんが通りを通り越して岡下おかした駅の斜め前、古びた家が残っている一角だ。

 同じような造りの家が三軒並んでいた。

 もともといちばん左が中華屋、右はさえない洋食屋だったと思う。

 左の中華屋はもうだいぶ前に閉店してしまった。

 いちばん右の店もずっと閉まっていたのだが、なんだか突然おしゃれに改装して、玄関のついた、白い窓枠に白いドアのおしゃれなスパゲティ屋になった。どうもこの店がこんなふうに変わってから、この一角の風情ふぜいがぐんと減ったと淳蔵じゅんぞう氏は思う。

 そのまん中は、今となっては薄汚れたとしかいえない店だ。

 「かっぽう坂上さかがみ」と書いたのれんが出ている。

 おかみの気分次第で、早く始まったりなかなか始まらなかったり、ときには予告なしに休んだりするので、今日はどうだろうと思っていたのだが、だいじょうぶだったようだ。

 がらっ、と、少したてつけの悪いガラス戸を開く。

 「お……」

と声をかけたとき、先客がいて、そいつがじろっと淳蔵氏をにらんだ。

 敵意かどうかは、わからない。

 おかみのつんさんが、淳蔵氏の顔を見て笑顔を作り、でもいつもの「いらっしゃい」を言わず、困った顔を作って、その不機嫌そうな先客のほうに目をやる。

 そこには、頬のこけた、ごま塩の髪の毛を短く刈った、灰色の服の貧相な男が座っていた。

 歳はどっちが上だろう?

 「はいはい。永遠ようおん西にし町の先輩さんが来ましたよ」

 つん子さんが、その敵意のようなものを持ってこちらを見上げている男に、声をかけた。

 「それはどこだ」

 その男が不景気な声で言う。

 「だから、今度あなたがお住まいになるところの、斜め向かいですよ」

 「なにっ?」

 どうも、その男は、お通しにも手をつけないで、もう日本酒の二合瓶を二本も空けたようだ。ガラスの猪口ちょこを中途半端な高さに上げている。

 敵意でもないが、歓迎でもない。警戒しているというのか、そういう顔でこちらを見ている。

 「つん子さん、ぬるめでかんをつけて、いつもの肉豆腐を」

と言う。淳蔵氏は冷や酒は飲まない主義だ。そして、わざと明るく

「やあ」

と声をかけ、その男の隣に座った。

 もともと、Lの字に曲がったここのカウンターは、長いほうに六つ、短いほうに四つのまる椅子いすしか置いていない。しかも両側のいちばん端っこは新聞とかマンガ雑誌とかが積んであるので、使えるのは残りの席だけだ。

 しかも、それが全部埋まっているところは見たことがない。

 「あんた。永遠寺って、どこだい?」

 相手の酔っ払いが不景気にきく。

 「西一丁目」

 「西一丁目、ってのは、西二丁目と近いのかい?」

 そう言って、酒をあおりかけ、その手を止めて、じっと淳蔵氏を見る。

 「隣ですよ。さっき、つん子さんが斜め向かいって言ってたようですが」

 ここに来ると、喉から声が自然に出てくる。

 家で、あの健一けんいち希美のぞみさんと話しているときには、どうして、あんなにつっかえた感じになるのだろう?

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