第91話 星淳蔵(農業)[1]

 岡平おかだいら岡下おかした永遠ようおん西にし一丁目のほし淳蔵じゅんぞう氏は、ふらふらと家の外に出た。

 夕食までこの牛糞ぎゅうふんの漂っているところで食べたくはなかった。

 いや、夕方に会社から帰ってくるはずの息子の健一けんいちはどちらでもいい。あいつが牛糞をまぶした夕食を食ってもおれは何とも思わない、と、淳蔵氏は思う。

 希美のぞみさんがそれを食べるのが耐えられない。

 希美さんに警告しなければ。

 しかし、どうしても言い出せないのだ。

 「牛糞」ということばが通じるだろうか。

 通じないだろう。あれは、身近に牛小屋があった人間だからわかるのだ。希美さんは、淳蔵氏が「牛糞」と言いかけたら、すぐに「牛乳」の話だと思ってしまう。同じ牛のものにはちがいないのだけれど。

 希美さんには牛糞の混じったものを食べさせ、自分は逃げる。

 それはよくないと思う。思うことは思うのだが、身体が受けつけないのだ。

 昼食は懸命けんめいにがまんして食べた。それを消化するために、けっきょく三時間も昼寝しなければならなかった。

 夕食はどうなるだろう? 耐えられず、途中でもどしてしまうかも知れない。それだとほんとうに希美さんを心配させる。

 かといって、夕食は何も食べないというわけにはいかない。そのためには、この牛糞きのこ雲のかかっていないところまで行かなければ。

 それで、夕食の支度にかかる前の希美さんに、淳蔵氏は声をかけた。

 「これから出かけて、今日は夕食は外で食べてきます」

 「まあ」

 希美さんは、この炎天下、淳蔵氏を出かけさせていいか、と考えたのかも知れない。

 でも、希美さんは、うん、とうなずいた。

 「坂上さかがみですか?」

 「はい。そうです。坂上です」

 はっきりとその店と決めていたわけではないが、希美さんもそう言うのなら、坂上にしよう。

 岡下駅前の、古い、ほんとうに小さな、薄汚れた小料理屋だ。

 前に、ここで酔いつぶれて、希美さんに迎えに来てもらったこともある。希美さんとここのおかみは、そんなこともあり、また、市のなんとかという寄り合いでもいっしょになったとかで、知り合いだ。

 「はい。それでは、楽しんできてください」

 希美さんはそう言って気もちよく送り出してくれた。

 家を出てから、その地下倉庫がつぶれたところを見に行こうかと思った。だが、その近くは、汚染濃度が濃い。放射能みたいにだれかが測ってくれるわけではないけれど、そこは汚染されているはずだ。

 雨が降るまでは近づかないほうがいい。

 雨が降れば、いい肥料になってくれるのだろうけど。

 だいたい、このあたりは土壌の塩分濃度が濃いのだそうだ。海に近いからだろうけど、海の近くでもとくにこのあたりだけ濃いという。

 あの大量の牛糞が、それで育ちの悪かった作物の、いい肥料になってくれるだろう。

 でも、それは雨が降ってからの話だ。

 それで、自分の家のあたりは早足で、しかし、今朝のきのこ雲が届いていなさそうなところまて来ると速度を落として、歩いた。

 やっと気持ちが軽くなった。深呼吸ができるようになった。心が晴れた、というのだろう。

 そして考える。

 あの放射能というやつの単位は「シーベルト」というらしい。最近はあんまりきかないが、一時期はテレビでよく流れていた。

 じゃあ、牛糞の汚染の濃度は「ウシーベルト」だ。

 ああ、いや、ギュー糞だから、「ギューベルト」のほうがいいかな。

 今日のあの爆発での汚染は、何ギューベルトぐらいなのだろう? でも、あんなに降ってきたのだから、たぶん基準は超えているな。

 だいたいあの希美さんという人は、気をつかいすぎなのだ。去年、熱中症に倒れたからといって、今年もそればっかり警戒している。もっと自由にやらせてくれればいいのに。

 去年、あれだけつらくて、それでもいま生きてるじゃないか。

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