ANOTHER STORY:鳥浜幸織の夏の一日(2)

 猫のお墓を探すのは早々にあきらめた。

 十年以上も前、猫のお葬式をやって、その遺骸を埋めた上に石を置いて墓標にした。

 瑠姫るきが見つけてくれた、四角くて大きめの石だった。ここにお参りに来たら、その石を目当てにそのお墓を探せばいいと思っていた。

 でも、大きいといっても、一辺が十センチあっただろうか。それがいまも同じ場所に残っていたとしても、いまは夏草に埋もれている。

 しかも、斜面だ。雨が降って土がゆるめば転がり落ちたかも知れないし、下から草が生えてくればやはり横に転がったかも知れない。

 幸織さちおは、それで、その猫を埋めたと思うあたりに向かって、手を合わせて目を閉じた。

 忘れていたわけではない。

 ここで猫のお葬式をした思い出は、幸織の「人生の選択」にすら関係している。

 ただ、たしかにずっとここにお参りには来なかった。

 いま手を合わせたので、猫ちゃん、許してくれるかな……。

 顔を上げた幸織は、吸い寄せられるように、道の先の鳥居を見た。

 そして、その先の、この夏の昼間にもまっくらな暗さをいっぱいにたたえた森を。

 鳥居は、色はせていたけれど、きちんと手入れされているようだ。斜面に建っているので、少し傾いているのは最初からだ。

 ここはひめしゃにとっては「仮住まい」だったので、もともとそれほどしっかりしたものは造っていないはずだ。

 入ってみようか、と思った。

 この鳥居から先は、還郷かんごうの者しか入ってはいけないことになっている。

 幸織は一度だけ入ったことがある。

 まだ小さかったころで、やっぱり夏だった。涼しそうだったし、木陰こかげの暗さにもわくわくしたのだろう。

 弟といっしょに入って遊んでいたら、やって来た怖いおじさんにこっぴどく叱られて逃げ出した。叱られるとかえって相手をからかってさらに怒らせるのが得意という困った弟が率先して泣き出し、その弟を後ろから抱きかかえて全力で逃げた。

 その怖いおじさんというのが、あの佳愛かあいちゃんのお父さんだったらしく、あとで佳愛ちゃんのお母さんが家に謝りに来た。でも、幸織も、二度と姫社には入らないようにと、お父さんやお母さんから何度も言われた。

 でも、こないだ、幸織と同じ帰郷きごうの瑠姫は、ここに入って、結生子ゆきこに――ユキちゃんに再会したという。

 もしかするといまもユキちゃんはここにいて、幸織を待っているかも知れない。

 ……幸織は首を振った。

 瑠姫も結生子ももうこの村の人ではない。もう村を出て十年以上経ったのだから関係ないでしょ、と言える。

 でも、幸織はいまもこの村の住人だ。

 しかも、困ったことに、あのころから偏屈へんくつだった佳愛ちゃんのお父さんはますます偏屈で怒りっぽくなって、とうとう還郷家流からも絶交を突きつけられてしまったという。

 しかも、その理由が、姫祭りの座で姫様を罵倒したからだというからよくわからない。

 姫社に帰郷家流の幸織姉弟がいるからと言って、怒って子ども二人を追い出した人が、姫様を罵倒……って何……?

 ユキちゃんに出会えればいいが、そんな人に会ってしまったらまたたいへんだ。

 それに、やっぱり、尊重しようと思った。

 その還郷家流という人たちの信仰を。

 幸織が大学で研究対象というのにしていたイスラームのシーア派にはアーシューラーの儀式というのがある。

 ずっと昔、三代めの指導者が沙漠さばくのなかで軍勢に包囲され、殺された。

 それ以後、信者たちは、その痛みを自分のものとして体験するといって、この日にはみんなで集まって自分の体を鎖や棍棒こんぼうで打ったりして痛めつける。

 信者ではないひとにしてみれば、なんでそんなことを、と思うのが普通なのだろう。

 でも、幸織にはわかった。

 この村の還郷家流の人たちは、いまも、そのお姫様が受けた苦しみや痛みを忘れないでいる。アーシューラーのような派手な行事でないけれど、いまでも、そのお姫様が捕えられたと伝えられる日にはみんなで集まってお祭りをするらしい。

 たぶん、実在はしなかったお姫様なのに……。

 人の受けた苦しみや痛みは人を惹きつける。その人が死んだらどうやっても取り返しがつかないから、いつまでも、何百年も、千年を超えても、人を惹きつけ続ける。

 理屈での信仰というより、人間にとってもっと身近な感覚で。

 だから、ユキちゃんに会いたい!

 結生子は苦しんだのだ。しかも、あのときの幸織に、いまの半分でも分別があれば、あんなことにならなかった。

 ユキちゃんを「取り返しのつかない」信仰の対象にしてしまう前に。

 やっぱり、この神社に入ろうか?

 もしかして、ユキちゃんは……。

 幸織は、ふっと息をついて、くるっと後ろを向き、姫社を後にした。

 もし、そのお姫様が神様ならば、幸織と結生子をまた引き合わせてくださるだろう。

 ずっと信じていなかった、帰郷家流にとっての「異教」の女神さまを、幸織は、このとき、はじめて信じようと思った。

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