第90話 三善結生子(大学院学生)

 千菜美ちなみ先生は怒っているのではなかった。

 急いでいたのだ。

 机の上の伝言メモを見ると、さっと顔を上げた。

 「結生子ゆきこちゃんすぐ出発。わたしの車で! 博子ひろこさんには出てから連絡! 結生子ちゃんがやってね!」

 「はい?」

 「『向洋こうよう史話しわ』は置いて、あとの史料のコピーは持って。『市史資料編』はわたしが持つ。『向洋史話』は岡平おかだいらの図書館で見られるように手配しとくから」

 「はい」

 持つって……。

 史料二セットでA4版五百枚ぐらいあるんですけど!

 先生は全力の早口で言う。

 「速くしてっ! ねえ、ここで美々みみちゃんに見つかったらこのまま夜の大学の偉い人のパーティーに引っ張り出されるんだから。わたしだけじゃないのよあなたもなのよ。学校全体の経営者の人たちに一挙手きょしゅ投足とうそくぜんぶじろじろ見られて、食べるものもなんにもなくて腰掛けることすらできないのよ。そんなのいやでしょ?」

 そういうことか……。

 コミュニケーション文化学部に小野寺おのでら美々という先生がいる。

 千菜美先生とほとんど同じくらいの歳で、頬があかい少女のようで、やっぱりなんでこの歳でこんなに、というほどきれいで。

 で、それが千菜美先生の天敵らしいのだ。

 いま、美々先生は、大学の経営とかに関係する仕事をしているらしく、よく廊下とかでひそひそ声でほかの先生と立ち話をしているのを見かける。

 いまも、洗い物に出たところを、あわれ千菜美先生はこの美々先生につかまってしまったのだろう。そして、そのまま、その大学の何かの仕事をさせられていたのだ。そこからようやく逃げ帰ってきたけれど、このまま残っていると、次はそのパーティーというのに連れて行かれる。しかも、たぶん、先生は言われたのだ。

 「学生も連れてきてくださいね」

などと。

 たいへんなのは二百五十年前の岡平藩だけではなかった!

 「早く! あと十数えるあいだに支度して、十秒後に研究室の電気消すから!」

 うわっ! 空中海賊ドーラでも四十秒だぞ!

 でも、PCを閉じて大机の上に出ているものを鞄に押し込むだけだから、十秒で十分だった。

 階段をばたばたと一階まで下りて、外に出て駐車場に向かう。

 重いかばんを運びながら、結生子がきく。

 「わたし自転車で来たんですけど」

 駐輪場は反対側だ。

 「あきらめて」

 ……そうですか。

 まあ、学内だから、しばらくは置いておいてもだいじょうぶだろうけど。

 そのとき急に

「結生子ちゃん隠れて!」

 千菜美先生は結生子の手首を強引につかむと、植え込みの木の下にしゃがんで隠れた。

 「痛っ!」

 でもとっさに大声を立てない分別は発揮した。

 重い荷物を持っていっぱいいっぱいの手首を強引に引っぱるんじゃない!

 何やってるんだと思って千菜美先生の視線を追うと、総合研究棟というやたら立派な建物の二階の廊下が見えた。

 天井に明るく電灯がついている。その下に、スーツを着た男の人や女の人が十人以上いる。どこかの部屋から出て来たところのようだ。立ち話をしていたり、窓に背中をくっつけて休んでいたりする。外国人もいるみたいだ。色が白くて背が高い人もいるし、朱色っぽいスカーフで髪と頬を覆った女の人もいる。背の高い男の人が頭に巻いている白い布はターバンというものかも知れない。

 多国籍というより、多宗教なのかな、これは……。

 そのなかで、身振り手振りを交えて、あっちで何か話し、また別の人に何かを話し、お辞儀じぎをし、と、活発に動き回っている小柄な女のひとがいる。

 美々先生だ。こんなに体を動かしていても、そのスーツが着崩れずぱりっとしているのがかっこいい。千菜美先生とは違うおしゃれさがある。どうやればあんなに着られるんだろう?

 千菜美先生は、さっきまでこの会議に引っ張り出されていたんだな、という推測がついた。

 やがて、美々先生が頭の上に手をあげてと手を叩いた。それで、何か大声で言っている。ガラス窓の開かない建物なので音も声も聞こえないが。それに応じて、廊下に並んでいた人たちはぞろぞろと歩き始め、廊下の向こうの角を曲がって見えなくなる。

 美々先生の姿も見えなくなった。

 「結生子ちゃん早くっ」

 千菜美先生がひそひそ声で言う。

 こっちの声もあっちには届かないと思うけど。

 それに、さっき手首をひねったことへの謝罪がほしいんですけど!

 でも、そんなことを言っていられる状況ではないのは結生子にもわかった。

 あの会議の人たちはこれから移動するのだろう。その移動しているところに出会ってしまったら、そのパーティーというのに引き込まれて、英語がしゃべれないとか言って、なぶりものとかそういうのにされるのだろう。

 英語はわかるなんてプライドは持っていないけれど、それでも「これぐらいはわかるはず」という、自分では自覚していないプライドを少しずつ削られていく。それは結生子もいやだ。

 だから、ここから先は、結生子が先生をリードして全力で駐車場の先生の車のところまで走る。

 さあ! とらわれのお姫様救出作戦に出発するぞ!

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