第85話 堀川龍乃(中学生)[1]

 「ちょっと待って! ちょ、ちょっと待って!」

 その切れ切れ絶え絶えの声にも正流せいりゅうはこたえず、先へ先へと進んでいく。

 「先へ」というより「上へ」か。

 正流の自転車は二段変速で、軽い。龍乃たつのの自転車は、ママチャリで、もともと重く、しかもそれに申しわけ程度の変速機能がついただけなのだ。

 さっきの滑川なめかわの坂道ぐらいならなんとかなったのだが、この坂は急すぎた。

 「もうっ!」

 龍乃は自転車を下りた。

 ふっ、と息をついただけのつもりが、息はそのまま激しく続いた。

 心臓がとんとんとんとんとこんなに速く打てるのかというくらいに速く打つ。その心臓の音が体じゅうから耳に響いてくる。

 汗は体中から噴き出して肌を駆け下る。汗が冷え、でも肌は熱くなってまた汗が噴き出す。

 目に汗が入りそうになったので手でぬぐうと、またその上から汗が流れてきて目に入りそうになる。

 ひどい……。

 龍乃は、もう、自転車のハンドルに手を置いたまま、顔を斜め下に下げて、背を丸めて息をしている以外に何もできなかった。さっきまで脚がつるということもなかったが、いまはもう脚はかちかちに固まって動かない。

 さっき、この村を一回りした。

 人の姿が多いとは言わない。でも、子どもは道で遊んでいたり、漁港の入り口で水鉄砲でおっかけっこをしたりしていた。海へ泳ぎに行く子どもたちもいた。砂浜までは出なかったが、泳いでいる人もわりといた。

 さっきの滑川地という村よりはずっと活気がある。

 自転車も、子どもの自転車、大人の自転車、何台も見かけた。

 でも。

 この人たち、大人も子どもも、自転車でこの坂を上り下りしてるの……?

 ああ、信じられない。

 足音が近づいてきたのに気づいて、龍乃は顔を上げた。

 正流だった。

 ふと笑顔になりそうになった。でも、さっき自分を置いて先に行ってしまった恨みが湧いて、口を結んでにらむ。

 「無理すんなって言ったろ? おまえの自転車じゃこれ無理なんだから」

 むすーっとする。

 「いつ言ったのよ?」

 「さっき坂上ってる途中に言ったぞ。おれが先行っていっしょに押してやるからって」

 むーっ。

 たしかに正流は言ったのだろう。

 でも、それを聞いている余裕もなかった。

 しかたがない。正流は何も悪くない。

 「ありがとう」

 言って、でも、笑うことはできなくて、龍乃は顔を上げる。

 正流はサドルの後ろを持って押してくれた。龍乃は両手でハンドルを押して歩く。脚が動くかな、と思ったが、すごいだるさが襲ってきたけれど、動くことは動いた。

 続けて歩くと、だるさのほうが散って、消えて行く。

 「これが、甲峰こうみねっていうところ?」

 歩くと首の上の髪の毛から汗がしたたる。

 「うん」

 「なに、この地形?」

 「何」と言っても、答えようがない。

 村に出入りできるのは、いま上っている急な坂一本だけ、その下に村が広がり、港がある。

 「もともとがけなんだ。その崖の下に砂とかがたまったところに、無理やり村を造ったってそんな感じだな」

 答えようがなくても答える。

 正流というのはそういうやつだ。

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