第81話 三善結生子(大学院学生)[6]

 「甲峰こうみねの古老は言った」

 あら、またうちだ。

 「讃州さんしゅう易矩やすのりはその領地から女を数名ずつ出させて、気に入った者はめかけにし、それ以外も屋敷内に仕事を与えて使っていた。易矩の妻はつねづねそれに不満を持っていた。主馬しゅめ殺しも易矩の妻がひそかに操っていたものだと土地の者は言う。主馬は聡明な主君であり、領内の者たちは主馬が成長すればかならずや善政を施すであろうとうわさしあった。ところが、易矩の妻はこの主馬が讃州の子であると信じており、殺さずにはおかないつもりであった。まったく惜しいことである。したがって、これが姫のたたりであるなどというのはまったくの虚偽である。姫のような者がほんとうにいたはずがない」

 姫の存在を否定するとは、これを言ったのは帰郷きごうだろう。そして、うちの帰郷家も昔はこの主馬びいきだったんだな、と思う。

 最近は帰郷家流でも主馬行稚ゆきわかの名はほとんど伝えられていない。

 甲峰には「馬塚うまづか」という小さな塚があって、そこが主馬が襲われた場所と伝えられている。馬塚の上には小さなほこらがあるのだが、荒れ果てている。だれが管理しているのかもわからない。

 結生子の祖父がつぶして、小さいほこらとして再建されたひめしゃがいまもだいじに手入れされまつられているのとはほんとうに対照的だ。

 「甲峰では、易矩の妻は、易矩の自害の後、この妾たちをすべて追放したと伝わる。妾と妾の子たちをすべて殺したという者もいる。事実ではないだろうが、そう思われてもふしぎではないほどであった」

 これは還郷かんごうりゅうのどこかが言ったのだろうな。

 易矩の自害後、易矩の妻が妾たちを殺したというのは嘘だろう。もしそのつもりがあったとしても、易矩が失脚した後の相良家は藩の監視下にあったから、そんなことはできなかったはずだ。

 「これを花沢はなざわの古老に語ると、古老は語気を強めて反論した。易矩の妻が妾とその子たちを殺させたのはまぎれもない事実である。その証拠に、村から易矩のもとに奉公した娘はだれも帰って来なかったというではないか。それに、妾が生き残ったのであれば、久本ひさもと家のほかにも相良家の後裔こうえいがいそうなものだが、そんな話もきかない。易矩の妻は妾とその子たちをすべて殺したのである。恐ろしい話だ」

 久本家というのは、相良さがら家没落後の易矩の直系の子孫だ。

 さっきの甲斐かいたきほどではないが、やはり山道をずっと行かないと着けないような久本という村に移住を命じられ、久本家と名のるようになった。今度は自分が山奥に追放されたわけだが、もともと久本村は相良家の知行を受けていたこともあり、孤立無援で苦しい生活を強いられたわけではなさそうだ。

 久本家は、易矩の自殺のあとはしばらく不遇だったが、明治のころには実業家として成功していて、いまも岡平おかだいら市で相当の名士だ。いまの当主は次は市長選に立候補すると言っていると聞いた。この当主は、前に、史料を見せてもらいに行った千菜美ちなみ先生を罵倒して追い出したらしく、千菜美先生はひどく嫌っているけれど。

 でも、この『向洋こうよう史話しわ』もこの久本家がスポンサーになって作っている。その本にこれだけ祖先の悪口が書いてあるのだから、それはたいしたものだと思う。

 しかし、この話は違うよな、と思う。

 奉公に出た娘たちが帰らなかったのは、そのまま岡平でほかの屋敷や商家とかに奉公先を変えたからだろうし、それに、易矩の悪名あくめいが広く知られている時代に、私はじつはその易矩の子孫だと名乗り出る人などいなかっただろう。

 易矩の妻というのもどういう人かよくわからない。

 易矩にどんな子がいたかもはっきりしない。めかけがたくさんいたというのだから、子も何人もいてもおかしくないが、易矩の子であると認められているのは男の子一人だけだ。

 ともかく、跡継ぎになってその久本家を名のった子は、易矩が自害したときまだ小さかったという。この妻という人は、易矩を失い、山の果ての村に追放されて、そこでこの子を育てたのだから、欲に固まった嫉妬しっと深いだけの女性ではないだろう。

 「相良讃州の妻妾さいしょうの数は藩主家の倍であると言う。十倍であったと言う者もいる。いまでは確かめようがない」

 そういうのなあ……。

 別にいいじゃん、プライベートで何をやってても。

 パブリックだプライベートだという意識はなかった、いまとは「おおやけ」と「わたくし」の考えかたが違う時代だ、とはわかっていても、結生子ゆきこはやっぱりそう思ってしまう。

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