第80話 三善結生子(大学院学生)[5]

 「岡平おかだいら久竹ひさたけは祖先が相良さがら家出入りの商人であった。この久竹の当主に尋ねると、当時の日記を調べてきて回答して言った。永遠ようおん焼亡前後、讃州さんしゅうに新しく男子が生まれたと言って、その祝儀しゅうぎの品を納入しているのだが、そんな事実はあるかと問う。ないと答えると、久竹の当主は、不審である、それだけで讃州はきん百両を支払っていると答えた。また、変事までの時期、女物の品の納入が増えていると言った」

 この日記って残ってないかなぁ。

 だめだよなぁ。

 残ってたら、『市史』が収録しているか、千菜美ちなみ先生が収集してるはずだもんな。

 せめて、この「久竹」って店がいまも残っているかどうか、調べてみるんだな。

 夏休み中にやるのかな……。

 まあ、ほかに夏休みにやることもないし、自分の研究対象なんだから、それぐらいやらないと。

 「岡平おかだいら築地つじいりまちの古老は言った。この町に伝わっている話によれば、変事直前の讃州はいつもめかけを連れて歩いていたという。それがたいそう太った女で、こんな女を連れていると危急のときに逃げ遅れるであろう町の者たちはあざけった。果たして、瀚哀かんあいこう行稚ゆきわかが難にったとき、讃州が主君のそばにいながら動けなかったのは、このとき讃州の傍らにはこの妾がいて、主君以上にこの妾の身の上を案じたからである。それが罪に問われて、讃州はその身をほろぼしたのである」

 この悪家老がよく女を連れて出歩いていたのは事実で、当時の岡平の商家の日記「葛屋かずらやいま左衛門ざえもん日記」にも「女を何人も連れてわが店にやってきた」というような記述がある。

 でも、行稚という若い藩主の領内巡視に同行したときまで、自分の妾を連れていたかどうか。

 次の記事は長い。一つ深呼吸して心の準備をし、取りかかる。

 「孝原たかはらの古老が言った」

 孝原は山のほうの地名だったと思う。

 「私の村は相良家の知行ちぎょうの土地であった。あの変事まで村から常に女数人を出して相良屋敷に奉公させるのが慣行だった。私の曾祖母は行稚公の変事のころに相良屋敷に出ていた。その曾祖母が幼い日のわが父に伝え、それを父から伝え聞いた。その話にいう。相良讃州易矩やすのりはたいへん人に好かれる性格で、常に人を楽しませるのが好きだった。ほかの家老格の家の屋敷に奉公する女たちは相良屋敷に奉公する朋輩ほうばいをうらやむのが常だった。この行稚公の変事に近い時期は、新しく迎えた「あらの」(詳しいことはわからない)という妾をたいへん気に入り、どこへ行くにもこの妾を連れていた。この妾には、一人、下女げじょが付き従っていた(下女の名も詳しいことはわからない)。妾本人もこの下女も二人とも体が大きく、おおらかな性格で、物知りで、二人とも屋敷内で人気があった。相良屋敷には物知りの女は人気があるという気風があった。私(古老の曾祖母のことである。以下同じ)にもたいへん親切であった。従達よりさと公の変事以来、讃州易矩は次第にうたぐり深い性格となっていて、要事も表向きに図らず、内々に処理することが多くなった。そのときにはこの「あらの」の屋敷に配下の者を招いて長時間談じ入り、議事は数日に及ぶこともあった。すなわち、「あらの」の屋敷が讃州のCABINETキャビネットであったと言ってもいいほどである。参集さんしゅうしていたのがだれか、私は若かったのでついにわからなかった。若い人が多く、家老のような家格の高い人はいなかったようだ。僧形そうぎょうの者がいた。この屋敷がのちに讃州易矩が自害する場所である。讃州易矩の妻は易矩が妾を多く置くことに不満だったが、この下女の聡明さは気に入り、そのため「あらの」も易矩の妻の覚えがめでたかった。讃州易矩本人も妻も機転が利く聡明な女を好んだ。讃州易矩はこの妾の下女を頼りにしていた。この下女はしばしば岡下やほかの土地に一人で出かけ、数日姿を見せないこともあった。易矩の命によるものだろうか。しかし、行稚公の変事の前、この妾の下女は使い出たままついに帰らなかった。屋敷うちでは、易矩の妻の意向で易矩が成敗したとも、妾その人よりも易矩に気に入られたので「あらの」が殺したのだとも言われた。しかし私はどちらも信じない。「あらの」も讃州易矩切腹の後に姿が見えなくなった。曾祖母は常に言っていた。二人ともどこかで無事に暮らしてくれていることをせつに願っていると」

 これは、詳しいだけでなく、伝承の経路がはっきりしている。CABINETキャビネットと英語が入っているのが、この「古老」が現代的知識も持っているぞとせいいっぱい自慢している姿を伝えているようで、かわいい。

 で、CABINETキャビネットって何かというと、たぶん家具のキャビネットではなくて、「内閣」だろう。

 このことばは、結生子が学部生のころ、「楽しいほうの英語」と呼んでいた英語の授業で、英語の政治ニュースのようなものをずっと読んでいたので、そこで覚えた。

 先ほどの「たいそう太った女」というのが、この「あらの」という女なのだろうか。

 讃州易矩が人当たりがよかったとか、聡明な女が好きだったとかいう話は、「葛屋今左衛門日記」にも別の商家の日記にも出てくるし、「りょう戊辰ぼしん」という明治初年に書かれた回顧録にも出てくる。

 しかし、その妾のところで内々の政治の議論をしていたとか、聡明な妾の聡明な腰元こしもとを頼りにしていて、易矩の命でつかいに出していたとかは、新しい情報だ。

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