第73話 天羽佳之助(元造船所社主)[4]

 「いいですか?」

 黒野くろの倫典とものり氏は、少しも急がず、ゆっくりと、悠々ゆうゆうと話した。

 「あのひとは、十年以上、あなたたちの家の家計を一人で支えてきたんですよ。その家からあのひとは身ひとつで追い出された。ああ、いやいや。勝手に出て行ったなんて言わないでくださいね。ご飯の入ったご飯茶碗ぢゃわん、お味噌みそしるの入った汁椀しるわんさばの味噌煮でしたかね、そういうのが乗った平皿ひらざら、それに、なんですか、水菜みずなか何かとソーセージのおひたし? それが入ったままの小鉢こばちはしと箸置き。そして、炊飯すいはん器の太いコード。それを投げつけられた。次々と。犬をしかるときにだってそんなことはしません。これを、出て行け、というメッセージ以外にどう解釈しろと言うんです? おっしゃりたいことがあれば、ぜひおきかせ願いたい」

 「いや、あれは……」

 一時、頭に血が上っただけで、と言わなければいけない。

 出て行かれて迷惑しているんだ、迷惑してるのはこっちなんだ、と言わなければいけない。

 そうだ。こちらから三くだり半を突きつけると言って、やっていなかった。それを先にやっておけば……。

 「あ、あんたは」

 首から始まった震えが、頭にも、体にも伝わって行く。

 体じゅうがぶるぶる震え出す前に言わなければ!

 「てっ……てるに頼まれて、おっおっ……おっおれを脅しに来たのか……」

 勇気をふるって、そこまで言う。

 黒野氏はまた目を細めて横目で佳之助かのすけ氏を見る。

 この場で、てるあてに二千万円の小切手を振り出せと、小切手帳を渡されたら?

 いや、それが二千万ではなく、五千万なんかだったら!

 それだけは確かめねば!

 「ど……どうなんだ……?」

 「どうでもいいけど」

 黒野氏は言って、佳之助氏から目を離し、前を向いた。

 「もうちょっとていねいな話しかたをしてくださいませんかねえ?」

 噴水のある池のこちら側で、小さな子どもたちがかん高い声を上げて動き回り、遊んでいる。

 そちらに目をやったまま、言う。

 「あのひとははまったく知りませんよ。だいたいね、あのひとは、わたしがまだ生きていることすら知らないはずだ」

 てる美の差し金でないとわかったので、少し攻めに転じられると、佳之助氏は思った。

 「じゃあ、どうして、いまみたいなことを言うんだ? いや、どうして、あれがどんな生活をしてるか、知ってるんだ?」

 ふんっ、と、黒野氏は馬鹿ばかにしたように鼻を鳴らす。

 「店がつぶれたことぐらい、インターネットを見ていればすぐわかりますよ」

 黒野氏は短く笑った。

 インターネット……?

 佳之助氏は、スマートフォンを電話と健康管理にしか使わないから、インターネットと言われてもよくわからない。

 そういうのがあるのは知っている。うそを流したりみんなで弱いものいじめをしたりする、ろくでもないものらしい。

 でも、それだけだ。

 黒野氏は落ち着いた話しかたで続ける。

 「それに、ご存じでしょうが、わたしにも妻がいましてね。お会いになりましたよねえ、あなた方二人の結婚式で」

 「あ……あ……」

 まったく覚えていない。

 「いやあ。女の世間というのはたいしたものですな。人づて、人づてをかいして、てる美さんのいまの状況が家内の耳に入ったんです。それで、まあ、わたしに、なんとかならないかと、ね?」

 黒野氏の唇の端が持ち上がり、笑いが広がって行く。

 それが、脅しの笑いなのか、心底しんそこ笑っているのか、わからない。

 佳之助氏はまた体全体が短くぶるっと震えた。

 「わたしもねえ、そういう頼みにはからきし弱いんですなあ。そういうときに、あなたがここにいらっしゃるのが目にまった。じゃあ、ちょっと話してみよう、と、まあ、こういうわけです」

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