第72話 天羽佳之助(元造船所社主)[3]

 黒野くろの氏が言う。

 「いやまったく、最近はたばこが自由に吸えなくて困りますなあ」

 このまま世間話を続けてくれるつもりだろうか。

 調子を合わせる。

 「あ、ああ、そうですな。最近は禁煙のところが多くて、困ります」

 「困るといえば」

 黒野氏はにやっと笑って佳之助かのすけ氏を見た。

 「奥さんのいない暮らしというのは、どうですか? やっぱりいろいろと困ってるのではありませんかね?」

 ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと、低い声で言う。

 言って、横目で佳之助氏を見た。

 「い……いや……そ……それ……」

 「それほどでも」と言おうとした。

 毎日、軽自動車で出かけて、岡平の街の手前にあるコンビニで一日分の食べるものを買ってくる。それが日課になっている。

 てるに出て行かれた直後は、妻のいない生活も不便で心細いと思ったが、それで十分だ。

 でも、声はかすれて、その先が出ない。

 黒野氏は目を細くして横目で佳之助氏を見ている。

 それをしばらく続け、息を短く吐いてから、言った。

 「もちろん、復縁ふくえんしてくれなんて言いませんよ。あんたはどうか知らないが、あのひとはいまのほうがずっといい生活ができている」

 「そっ……それは……」

 「それはよかった」と反射的に言おうとした。でも、やっぱり声が出ない。

 それに「それはよかった」でいいのか?

 「けっ! 復縁だと? まっぴらごめんだ!」

 そう言うのが正しいはずなのに、そんなことばは佳之助氏の口から出る前に遠いところに飛んで行って消滅した。

 黒野氏は、また、たばこを一服するように、深呼吸した。

 「ただね、将来が心配だ。そうじゃありませんか?」

 「い、いや、その……」

 将来ならば、自分のほうが心配なのだ。あいつには仕事がある。

 黒野氏は大きく息を吸って、吐いた。

 「ご存じありませんかね? あの岡平おかだいらりんりんどうって店は、今年の三月で営業終了しましてね。つまり奥さんはいま失業中というわけです」

 「えっ?」

 しっ……失業?

 とっさに佳之助氏が考えたのは、妻が失業したら、自分の「扶養ふよう家族」というものに入り、自分がカネを払わないといけなくなるのではないか、ということだった。

 「扶養家族」なんて、どういうものか、よく知らない。

 関係ないと思っていた。

 黒野氏は、ゆっくりとした言いかたで、確かめる。

 「ほう。やっぱりご存じなかった?」

 「は……はい」

 知らないんだから、やつの生活費なんか、知ったものではない。

 そう言って、こいつに通用するだろうか。

 「不公平だとは思いませんか? あのひとは、そう、十年以上、スーパーでパートの仕事をして、あなたの家計を支えた。そのあいだ、あなた自身は、一せんかせがれなかった。そうじゃありませんか?」

 い、いや、株の配当を……。

 だが、この黒野というやつがそういうことをきいているのではないことは、佳之助氏にもわかった。

 造船所を開いていたころは別として、あのバブル崩壊というできごと以来、佳之助氏の収入があの家の衣食住のために役立てられたことなど、ただの一度もない。

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