第71話 天羽佳之助(元造船所社主)[2]

 ふと右隣に誰かが腰を下ろしたのに気づいて、佳之助かのすけ氏は顔を上げた。

 横を見る。

 自分と同じくらいの歳の老人だ。

 髪の毛を短くっている。白のポロシャツにグレーのズボン、そのポロシャツの襟やボタン留めのところに青いふちがついているのが、何というのか、ハイカラだ。

 佳之助氏がもう久しくきいていないことばで、「マドロス」と呼ぶのがいちばんっている男だ。

 「おい! だれの許しでおれの横になんか座るんだよ! 座るところならほかにいくらでもあるだろうが!」

 そう言おうと思ったが、どうもそいつのほうが体が大きい。

 しかも、横顔が、どこかで見たような、見たことのないような……。

 べつに追い払うほどのやつでもないか、と思って、何も言わずにいると、

「人違いなら許してくださいよ」

 横に座ったその老人のほうから話しかけてきた。

 ことばはていねいだ。

 だが、その声は低く、しかも「どす」というようなものが利いていた。

 また首筋がぞくっとした。

 「甲峰こうみね村で甲峰スター造船所という造船所を経営してらした、天羽あもう佳之助さんじゃございませんか?」

 首筋がぴんと伸びて硬直こうちょくした。

 さてはあの頃の債権さいけんしゃか?

 しかし、あの工場はあの三善みよし祥造しょうぞうに売り払ったのだ。だから、工場の債務もその三善祥造にわたったはずだ。

 それとも、その三善家が一家離散で借金の取り立てができないから、こちらに来たのか?

 「どうなんです?」

 相手が相変わらずゆっくりした低い声で言う。

 違う、と言って通用するとも思えない。

 だから、できるだけ相手に脅されていないところを見せなければ!

 「そっ……そうですが」

 相手の顔は見ずに、言う。

 「どちら様で」

 相手は大きく息をつき、肩を楽にしてから、また息を吸って言った。

 「黒野くろの倫典とものり花沢はなざわの、第八だいはち文明ぶんめい丸の船主、と言えば、思い出しますかね?」

 「あっ……」

 佳之助氏は、それ以上のことばが出ない。口を閉じることもできず、半開きのままだ。

 そうか! こいつだったか!

 今日はなんてひどい一日だ!

 黒野倫典氏は、その佳之助氏の様子をしばらく見てから、軽く上半身をひねり、佳之助氏に右手を差し出した。

 握手しよう、ということらしい。

 何を握手なんぞ! そんな西洋人みたいな挨拶ができるかい!

 そう突っぱねたいのだけれど、もちろん、そんなことはできなかった。

 佳之助氏がおずおずと差し出した右手を、黒野氏はゆっくりと握り返した。力強く握って、二度、小さく揺すり、放す。

 佳之助氏は、その手をすばやく引っ込めると、左手で上からかばって、横目で黒野氏を見た。

 黒野氏は、おもむろに、ポケットからたばこの箱を取り出した。たばこの箱からたばこを一本取りだし、口にくわえ、マッチで火をつけようとする。その一連の動きがゆったりと流れるようだ。

 でも、あれ、ここ、吸っていいんだったかな、と思って泳がせた佳之助氏の視線に、向こうのトイレの入り口に出ている禁煙の標識がうつる。

 ここ、禁煙ですよ、と言うべきかどうか。

 黒野氏は、だが、マッチをる直前に、マッチ棒をその箱に戻した。

 マッチ箱をポケットに戻し、おもむろにたばこを口からはずす。

 「おっと、ここは禁煙でしたね」

 言って、たばこの箱を出してたばこをゆっくりと箱に戻す。その箱をまたゆっくりとポケットにしまった。

 佳之助氏のほうを振り向く。

 「気がついているのなら、言ってくださればいいのに」

 「あ……あっ……」

 いつもの佳之助氏ならば、そこで「とんちき野郎! そんなのは自分で気をつけやがれ!」ということばを、少なくとも頭には思い浮かべる。

 だが、いまは、その力も奪われているようだ。

 だれに?

 黒野氏は、大きく息を吸って、吐いた。

 たばこに火をつけて最初の一服を楽しむときのように。

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