第71話 天羽佳之助(元造船所社主)[2]
ふと右隣に誰かが腰を下ろしたのに気づいて、
横を見る。
自分と同じくらいの歳の老人だ。
髪の毛を短く
佳之助氏がもう久しくきいていないことばで、「マドロス」と呼ぶのがいちばん
「おい! だれの許しでおれの横になんか座るんだよ! 座るところならほかにいくらでもあるだろうが!」
そう言おうと思ったが、どうもそいつのほうが体が大きい。
しかも、横顔が、どこかで見たような、見たことのないような……。
べつに追い払うほどのやつでもないか、と思って、何も言わずにいると、
「人違いなら許してくださいよ」
横に座ったその老人のほうから話しかけてきた。
ことばはていねいだ。
だが、その声は低く、しかも「どす」というようなものが利いていた。
また首筋がぞくっとした。
「
首筋がぴんと伸びて
さてはあの頃の
しかし、あの工場はあの
それとも、その三善家が一家離散で借金の取り立てができないから、こちらに来たのか?
「どうなんです?」
相手が相変わらずゆっくりした低い声で言う。
違う、と言って通用するとも思えない。
だから、できるだけ相手に脅されていないところを見せなければ!
「そっ……そうですが」
相手の顔は見ずに、言う。
「どちら様で」
相手は大きく息をつき、肩を楽にしてから、また息を吸って言った。
「
「あっ……」
佳之助氏は、それ以上のことばが出ない。口を閉じることもできず、半開きのままだ。
そうか! こいつだったか!
今日はなんてひどい一日だ!
黒野倫典氏は、その佳之助氏の様子をしばらく見てから、軽く上半身をひねり、佳之助氏に右手を差し出した。
握手しよう、ということらしい。
何を握手なんぞ! そんな西洋人みたいな挨拶ができるかい!
そう突っぱねたいのだけれど、もちろん、そんなことはできなかった。
佳之助氏がおずおずと差し出した右手を、黒野氏はゆっくりと握り返した。力強く握って、二度、小さく揺すり、放す。
佳之助氏は、その手をすばやく引っ込めると、左手で上からかばって、横目で黒野氏を見た。
黒野氏は、おもむろに、ポケットからたばこの箱を取り出した。たばこの箱からたばこを一本取りだし、口にくわえ、マッチで火をつけようとする。その一連の動きがゆったりと流れるようだ。
でも、あれ、ここ、吸っていいんだったかな、と思って泳がせた佳之助氏の視線に、向こうのトイレの入り口に出ている禁煙の標識が
ここ、禁煙ですよ、と言うべきかどうか。
黒野氏は、だが、マッチを
マッチ箱をポケットに戻し、おもむろにたばこを口からはずす。
「おっと、ここは禁煙でしたね」
言って、たばこの箱を出してたばこをゆっくりと箱に戻す。その箱をまたゆっくりとポケットにしまった。
佳之助氏のほうを振り向く。
「気がついているのなら、言ってくださればいいのに」
「あ……あっ……」
いつもの佳之助氏ならば、そこで「とんちき野郎! そんなのは自分で気をつけやがれ!」ということばを、少なくとも頭には思い浮かべる。
だが、いまは、その力も奪われているようだ。
だれに?
黒野氏は、大きく息を吸って、吐いた。
たばこに火をつけて最初の一服を楽しむときのように。
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