第69話 天羽てる美(元スーパー勤務)

 日傘ひがさを差しているので、あの中学生のカップルが手を振ったのに答えてやることはできなかった。

 二人が若者らしく大きく尻を振りながら自転車をいで坂を上っていったのを見て、てるは、あの子たち「滑川地の美人はかならず出戻る」ってことばは知ってるのかな、と思った。

 もともとの笑顔にまた微笑が加わる。

 てる美は、滑川なめかわの出身で、出戻った。

 ということは、ほんとうに美人なのだ。

 誇りにしていいと思う。

 あの子たちに会う前は、自分が「わたしたちは女だ。がんばろう」なんて中学生の女の子に言うところなど想像もしなかった。

 若い子に「元気をもらう」というのは、こういうことを言うのかな?

 若い子に負けないようにチャレンジして生きなければ!

 もし失敗して倒れても、いまの自分を悲しんでくれる人は少ない。

 両親と、娘と……。

 そして、そのどちらも、てる美がせいいっぱい何かをやろうとして倒れたのだと知ったら、納得はしないにしても、少なくとも怒りはしないだろう。

 もともとそういうチャレンジする生きかたをしたかったから、花沢はなざわ黒野くろの倫典とものりが紹介してくれた、甲峰こうみねの若い造船所の工場主に嫁いだのだ。

 最初の何年かはほんとうに楽しかった。

 寝るひまもない忙しさにきつい仕事で、いつ倒れるか、いや、倒れるならばいつ倒れることが許されるか、そればかり考えながら仕事をしていた。

 でも、その日々すら、楽しかったのだ。

 しかし、その夫になった男は、てる美が求めていたような、何かにチャレンジして達成するのを喜ぶような男ではなかった。ただ、自分が偉いことを周囲に見せつけ、実現などできそうもない夢を語りたがる男だった。

 その、あり得ない夢を熱っぽく語るところが、チャレンジャーに見えていただけなのだ。

 ベンツがほしいとかシボレーがほしいとか言って、でも、甲峰村は道が狭くて軽自動車でなければ乗り入れられないので断念した。甲峰の道が狭いのは帰郷きごうりゅう三善みよし一族の陰謀だと、一万回ぐらいぶつくさ言って断念した。

 たしかに、ライバルの造船所を経営していたその三善みよし祥造しょうぞうという老人は、虫酸むしずが走るほどいやな男だったけれど、会社の経営陣は、同じ浜の同業者なのだからといろいろと気をつかってくれた。従業員の合同飲み会から、合コンから、仕入れの共通化まで、いろんなことを提案してくれた。

 でも、夫は、そういう話が来るたびに断っていた。断るだけならいいけれど、断る前に罵倒が十分以上続く。

 てる美には、その「帰郷家流」・「還郷かんごうりゅう」という対立がけっきょくよくわからなかった。とくに、ほかの「還郷家流」の人から、還郷家は「姫神ひめかみ様」をたいせつにするときいたので、その「姫神様」ってどういう神さまかを夫にきくと、乱暴な

「知らねえよそんなもん!」

という答えが返ってきたので驚いた。

 それ以来、てる美は、その「帰郷家流」・「還郷家流」の違いの由緒ゆいしょには家では触れないことにした。

 最初は期待して自分のところに船を任せてくれていた「還郷家流」の漁民も、夫に嫌気いやけがさして、ライバル会社に頼むか、どこかよその会社に切り替えるかしてしまった。

 しかも、この夫は、大学の造船学科卒というのが自慢なわりに、手に技術はないし、現場のこともよくわからない。それで技師とか会計士とかを雇うのだが、それに対してもり散らしたうえに難癖なんくせをつけるので、すぐに辞められてしまう。

 仕事になるはずがなかった。

 救いは、取引していた証券会社がきっちりやってくれていて、もうけを上げ続けてくれたことだ。

 バブル崩壊もそれほどの傷を負わずに乗り切った。

 ところが、夫がどこかで自称「投資指南しなん」の女性と知り合い、証券会社のアドバイザーのいうことをきかなくなって、その女性の勧めるままにいいかげんな投資を繰り返した。もうどうでもいいことだけど、その女性とたぶん肉体関係も持っただろう。

 でも、財産をすり減らして、あるときその女性にケンカを売ってケンカ別れし、同時に証券会社ともケンカ別れした。

 このあたりからてる美は夫には愛想あいそき果てていた。

 離婚しなかったのは、佳愛かあいがいたからだ。

 佳愛を、夫の暴力から守らなければいけなかった。暴力と、ことばの暴力と。

 それだけの理由だった。

 だから、佳愛が大学に進学した後、手当たり次第、しかも料理が入ったままの食器を投げつけられるというできごとがなかったとしても、遅かれ早かれ、てる美は滑川地にい戻っていただろう。

 滑川地の美人はかならず出戻る。

 いいじゃない。

 それが美人の権利だ。

 あの中学生たち、とくに、目立たないけれど何ごとについても前に出ようとする龍乃たつのという女の子は、あの頃の自分と同じように目を輝かせていた。それを、傷つかないように守ろうとする、龍乃よりも幼い顔のセイという男の子と、なんだか高め合ううらやましい関係に見えた。

 あの龍乃という子に負けないようにしなければ。

 もちろん、自分は若くはない。だからあの子たちと同じことはできない。それがわかるくらいには年を取っていることもわかっていたけれど。

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