第68話 三善結生子(大学院学生)[4]

 「岡下おかしたしょう某氏が言った」

 麩商?

 お麩屋さん?

 そういう商売があるんだね。

 「夏姫は玉藻たまもひめの母である。私のそう祖父そふはまだ幼いころに永遠ようおんもうでるこの母と娘を見て深い感銘を受けたと言っていた。母も娘も世にまれな美人であったと私はきいた。ついでに言う。私の曾祖父は永遠寺の門内で遊び戯れる玉藻姫を何度も見たと言っている。してみると、この姫はいないという説は、まったく正しくないのである」

 はい?

 夏姫という正妻が、その謎の玉藻姫というお姫様の母親?

 そして、玉藻姫が岡下の永遠寺の境内けいだいで遊んでいた?

 ああ、いやいや。

 まず、岡下で娘の玉藻姫を連れた夏姫を見た、というのは、どこかに必ず嘘がある。

 正妻は江戸から出られないはずだから永遠寺にも詣でられないし、正妻になる前にいっしょに永遠寺に詣でたのならば玉藻姫はその夏姫の娘ではなさそうだ。

 その同じ人が言っていることだから、玉藻姫が永遠寺で遊んでいたというのも嘘っぽい。

 善意に取るとしても、永遠寺で美人の親子を見かけて、それをこの人が夏姫と玉藻姫だと思いこんでしまった、と解釈するのがぎりぎりのところだろう。

 「小椹おざわら村の豪家ごうかの主人某氏が言った。夏姫は嫉妬しっと深い女であった。また自らの美しさに酔いしれていた。あるとき、国許くにもとに、玉藻姫という、自分よりさらに美しい姫がいると知った夏姫は激しく嫉妬した。夏姫は、讃州易矩を誘惑して易矩に身を任せ、そのかわりに玉藻姫を成敗せいばいさせたという」

 脱力する。

 ……白雪姫か、それは……!

 いや。この話を集めたのって明治の後期だから、もう白雪姫のお話が日本に入っていた可能性はあるなあ。

 そういうのの影響がここに出てるとすると……。

 うわあ。

 ややこしい……!

 「編集は言う。この説にはやや疑わしいところがある」

 ああ、編集部のコメントつきだ。

 それはそうだよな。

 編集部コメントは続く。

 「ところで、岡平の古老がこの説をきいて言った。相良讃州易矩から夏姫により親しい関係になりたいと求めたのである。夏姫はそれに応じた。讃州易矩は、その後、岡下に来て玉藻姫を見初め、同じことをこの姫にも求めた。しかし玉藻姫は強く拒絶した。玉藻姫が讃州に殺されてしまったのはそのせいである」

 「さらにその談義をきいていた別の古老が言った。讃州は永遠寺に詣でた折りに玉藻姫を見初めたのである」

 なんだ?

 疑わしいと書いておいて、けっきょく、その系統の話を発展させてるんじゃないか!

 「しかし、夏姫、玉藻姫ともに世にまれな美人であったという話は、多くの古老が口をそろえて言ったことである。詳しいことはこれ以上述べない」

 はいはい。

 大藤おおふじ先生も瑠里るりさんも杏樹あんじゅちゃんも仁子じんこちゃんも世にまれな美人ですよ! ネットにそう書いてばらまいてやろうか!

 そう思って、結生子は気づいた。

 この本はネットの掲示板のようなものだ。

 「滑川地の美人はかならず出戻る」という題を立てておいて、そこに関心のあるひとが次々に書き込んでいく。最初はその題にそった内容が書かれるが、リプライを繰り返すうちに、別の話題へとれて行く。管理人もそっちの話題が面白いと思ったら、そちらに話題を移して行く。

 この『向洋こうよう史話しわ』というのは、そういう性格の本なのだ。

 以上で、この「滑川地の美人はかならず出戻る」の説明は終わっている。

 けっきょくこのことばの意味の説明にはなっていなかった。

 でも。

 気づいたことはあった。

 玉藻姫は先生の言う「ヒロイン」だからどんな話題のところにも出てくる。それはいいとしよう。

 夏、夏姫、お夏……。

 大炊おおいのかみ行喬の正妻。

 その人物のことを結生子はこれまで一度も気にしたことがなかった。

 このお夏のことがわかると、この玉藻姫騒動の何がわかるというのだろう?

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