第64話 堀川龍乃(中学生)[2]

 「もう大学を出て働いてるわよ。銀行ですって」

 「えっ」

 のどが凍りついたような声を立てたのは正流だ。

 考えていることは同じだろう。

 龍乃たつのが言う。

 「そんな大きい子がいるってとかじゃなくていらっしゃるとかなんてぜんぜん見えないです!」

 そうだ。お母さんより若いくらいじゃないかと思っていたのに!

 「ありがとう」

 言っててるさんは肩を首筋にくっつけるくらいにして笑った。

 それでもひんのよさが消えないのは、やっぱり美人なんだ。

 「両親もね、漁師はやめて東京に近いほうに引っ越しちゃったけど、元気だから。とくに父なんかここにずっと住みたかったらしいんだけど、ここだと、急病とかになって一刻を争うとかなったときにどうしようもないからね」

 そうか。

 もともと、その漁師のお父さんというのと、お母さんと、それから、いまは銀行で働いている娘というのと、この家で暮らしていたんだ。

 それも、たぶん、幸せに。

 あれっ、と思う。でも、何をあれっと思ったかを考えないうちに、正流せいりゅうが自転車にまたがった。

 「行くぞ」

と声をかける。

 たしかに、このままでいると、いつまでもてる美さんとおしゃべりしていそうだ。

 二人は、自転車に乗ると、後ろのてる美さんに左手を上げて見せ、そのまま半分砂に埋もれた坂道を上っていった。

 坂道をのぼりきり、もっと南へ続いている道との合流点まで来て、正流は自転車を停めた。

 龍乃も停まる。正流の自転車と違って、「ママチャリ」に毛が生えたような、具体的に言うと三段だけ変速がついただけの龍乃の自転車で、ここまで上がって来るのは、緩い坂だったといっても少しきつかった。

 停まってくれてほっとした。

 正流が龍乃を振り向く。

 「疲れたな」とか「さあ一気に帰ろうか」とか言ってくれるのかと思った。

 でも、正流が口にしたのはぜんぜん違うことばだった。

 「滑川なめかわの美人は必ず出戻るって言うんだ」

 「は?」

 「ナメカワジノビジンハカナラズデモドル」……。

 何、それ?

 「だからさ。いまの滑川地って村から美人がどこかにお嫁に行くと、必ず離婚して帰ってくる、ってこと。昔からさ、そう言うんだ」

 「なにそれ?」

 坂道を上って心臓がどきどきしている。

 「だからさ。いまのてる美さん、お父さんとお母さんと、それからその娘さんってひとの話はしたけど、結婚した相手の話はしなかっただろ? 娘さんがいるってことは、結婚してるはずなのに」

 「あ、ああ……」

 そうか。さっき、あれっと思ったことの正体が、それだったのだ。

 「結婚してどこかに行ってて、離婚して戻って来たんだな、あのてる美さん」

 そのとおりだ。それに間違いないだろう。

 でも、そう正流に言われて、龍乃はかえってカッとした。

 「どうしていまそんなことを言うのよ? いいじゃない、べつに、それでも」

 正流は面倒くさそうに、まゆをちょっとひそめて見せた。

 「あとで言うのはいやだったからだよ、そういうことを」

 正流はそれだけ言って、口をつぐみ、道の先のほうを見た。

 「だったら、いまだって言わなくてもいいじゃない」と言ったものかどうか。

 考えるまもなく、正流は、龍乃を振り向いて言った。

 「さあ、これから甲峰こうみねに行くか、唐子からこに行くか。どっちがいい?」

 「えーっ?」

 いま考えていたことはすべてどうでもよくなった。

 「まだどっか行くのぉ? もう帰ろぉうよぉ」

 ここから一時間で帰っても、夕飯の時間にはまだ余裕がある。しかし、帰りは疲れているから、行きより時間がかかるのだ。

 「あのさあ」

 正流は表情を変えないで続ける。

 「どこ行ってた、ってきかれたときに、滑川地まで行って帰って来た、じゃ、時間の計算が合わないぞ。その、てる美さんの家にいた時間のぶん。だから、ほかどっか行ってきたっていうのがちゃんとしゃべれるようにしないといけないじゃないか」

 「ああ」

 アリバイ作りっていうやつ……。

 まあ、仕方ないだろう。てる美さんも、二人がてる美さんの家に来たことはないしょだと言っていた。

 「唐子はこっちの道路からちょっと距離あるから、甲峰かな。甲峰で、坂下りて、すぐ引き返そう」

 「うん」

 生返事をしたけれども、なんかよくわからない。

 正流は、ちーんと自転車のベルの音を鳴らして出発する。

 龍乃も続いた。

 呪文のようなことばは、まだ頭の中に渦巻いている。

 「ナメカワジノビジンハカナラズデモドル」……。

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