第62話 三善結生子(大学院学生)[13]

 「さて、これで、これから行く岡下おかしたって街のイメージは持てたわね?」

 いや、イメージが持てたんじゃなくて、謎が増えた、と言いたいのだが!

 「さあ。作業に戻ってちょうだい。お茶のかたけはわたしがやるから」

 そう言って、自分のカップとソーサーを手に持ち、先生は自分の机のところから出てきた。

 切り替えが速い。

 さては、あの思わせぶりなしぐさは、結生子ゆきこを油断させるためだったのか!

 「ああ、いや」

 結生子はあわてて立ち上がろうとする。

 「わたし、やりますよ」

 研究室でいちばん偉い先生にそんなことをやらせるなんてことはできない。

 ところが、千菜美ちなみ先生は、結生子の後ろに回り込むと、いきなり結生子の肩に手を置いた。

 動きがすばやい。

 でも、それ異性でやればセクハラだぞ?

 「ねえ何を言ってるの結生子ちゃん?」

 そしてまたねた女の子のように言う。

 「結生子ちゃんは、やらなくていいことはやらなくていいかわりに、やらなきゃいけないことをやらないといけないんでしょ?」

 「ああ。はい。じゃ、すぐに史料読みに戻ります」

 そう答えても、肩に置いた手の圧力は減らない。

 もしかして、と思い、きいてみた。

 「もしかして、ゼミのレポートも入ってます?」

 「うん。入ってる」

 千菜美先生は無情だ。

 「いつその岡下からお呼びがかかるかわからないんだから、いますぐにでも提出してほしいところ」

 おいっ!

 いったいどうやって、永遠ようおんの火災の記事を「玉藻たまもひめ騒動」の五百ページもの記述から見つけ出し、その上に、中世荘園のレポート四千字まで書けるというのだろう?

 「じゃあ、そっちを先にやって、『向洋こうよう史話しわ』の検討はあとでいいですか?」

 「そんなことは言ってないわよひとことも」

 おい……。

 「もちろんあとでいいわけないでしょ? でもね、ともかく結生子ちゃんがレポート出さなかったら学部生に示しがつかないから、ぜひ」

 この「ぜひ」を強調する。

 「ぜひ、お願いね」

 だいじなところを二度言うと、先生は結生子が使っていたカップとソーサーも持って研究室を出て行ってしまった。研究室の流しではなくて、お湯がたっぷり使えるフロア共用の流しまで行くつもりだろう。

 そのパスチャライズドミルクでカップにもクリームがいっぱいついてるだろうからね……。

 「あーあ」

 結生子はわざと声に出して悪ぶって言う。

 ここで中世荘園のレポートのほうを先にやるなんて言ったら、また色っぽさの加わったねちねち攻撃を食らうのだろう。

 でも、そうしようと思った。

 いまの先生との雑談で玉藻姫騒動という事件についていろんなことを考えた。しばらくアイデアを寝かせておきたい。

 中世荘園のほうのレポート四千字をさっさと書いてしまえば、あとはその岡平と岡下の件に集中できる。

 四千字というと長いようだけど、PCのテキストエディターの画面で三画面ぶんぐらいだ。勢いにまかせて書いて書けない量ではない。

 どうせなら破壊的なレポートを書いてやる。いじわる先生は、それで学部生に示しがつくことになるかどうか、試してみるがよい。

 結生子は、一人で密かに性格悪そうにふふっと笑うと、『向洋史話』二冊をいったん片づけて、千菜美先生のゼミで使っている中世荘園の史料集をひっはり出した。

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