第60話 三善結生子(大学院学生)[11]

 「結生子ゆきこちゃん、いまのは推測に推測を重ねたってやつで、ぜんぜん学問的には説得力がない。それは結生子ちゃんならわかるわね!」

 美人の先生は熱っぽく早口で言った。

 それはわかりますって!

 「あなたのいまのはね、推測に推測を重ねたってやつで、何も言ってないのとおんなじなんだけど、わかってる?」

 ゼミでも論文構想発表とかでも、結生子も言われたし、森戸もりと杏樹あんじゅいずみ仁子じんこはもっと言われた。杏樹は何度言われてもへらへらと笑っているけれど、仁子のほうは本気でショックを受けたことがある。

 先生は答える時間はくれないで、話し続ける。

 「でもね、結生子ちゃん、そのとき、藩が改易かいえきとか取りつぶしを恐れていた、ってことは確かだと思うのよ。そうすると、改易とかにつながりそうな要素は、できるだけ隠そうとするでしょ? それは、どう?」

 「ええ。その通りだと思います」

 それは、その、先生にめちゃくちゃに不備を叩かれた卒業論文というので扱った。

 結生子が言う。

 「しかも、大膳たいぜん従容よりかたって人は、改易かいえきはもちろん、領地の一部召し上げ程度の処分もすごく恐れてました。あくまで、岡平おかだいら岡下おかしたいずみ家の下で持ち続けたい。岡平藩と岡下藩の本藩‐支藩しはんという「成り立ち」も崩したくないって、すごくそういうの言いますよね」

 それは卒論の内容に関わるので、あんまり言いたくない。

 また先生のねちねちした指導が始まりそうだ。

 でも、いまは、言ったほうが、たぶん、いい。

 「どうして、この従容ってひとがこんな改易を怖がるのか、わたし、よくわからないんですよ」

 「うん……」

 「この従容ってひと、もともと岡下藩の藩主ですよね? つまり支藩ですよね? だから、本藩が破滅するのを、あんなにまで一所いっしょ懸命けんめいに助けなくてもよかったんです」

 先生の唇に笑みが浮かぶ。嬉しそうに言う。

 「わたしが、卒論審査のときに、本藩と支藩の関係がわかってない、って繰り返して指摘したら、結生子ちゃんがめろんめろんになったところね!」

 ほら来た。

 だいたい何がそんなにうれしいんだろう?

 でも、いまは、いじめられてもいいと思って言ってるんだ。

 だから、気にしないことにした。

 ……で。

 「めろんめろん」って何……?

 「少なくとも、を認めて、岡平・岡下両藩を合わせて減封げんぽう石高こくだか削減、領地削減でもよかったはずですよね? この時代なら、それぐらいで普通、むしろ軽いくらいだと思うんですよ。それに、もっと言ってしまえば、ですよ。大藩を没収されて改易とかなら抵抗するのはわかります。でも、岡平藩も岡下藩もちっちゃい藩です。しかも財政破綻してます。だったら、改易されてどこかの土地で再出発とか、旗本はたもととして再出発とか、それでいい、って判断もあったと思うのに、どうして、改易はもちろんなし、減封もなしにあんなにこだわるんです、この従容ってひと?」

 ひとつ、こういうばあいの江戸時代の藩に共通する理由は「家臣を路頭に迷わせたくないから」だ。

 減封・改易となると、家臣を解雇しなければならない。代々、自分の家に仕えてくれた家臣をだ。しかも、当時の武家社会では、そうやって地位を失った家臣の転職はなかなか厳しかった。多くの家臣を浪人の立場に追いやることになる。ドラマとかでは「浪人」というと自由でカッコいい存在だけど、実際には、生活は苦しいし、社会的信用もないしという惨めな存在だったらしい。

 しかし、この従容という殿様は支藩の岡下藩出身だ。岡下藩の家臣は守らないといけないだろうけど、本藩の岡平の家臣の心配をそこまでしてやる義理はない。言ってしまえば本藩が勝手に自滅したのだ。

 しかも、解雇するならやりようがあった。その藩政をめちゃくちゃにした相良さがら易矩やすのりという家老に近かった人物から順番に切り捨てていけばいいのだ。

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