第59話 三善結生子(大学院学生)[10]

 結生子ゆきこは続ける。

 「普通、引き継ぎってやりますよね? 旗を受け継ぐとき、その優勝校に渡すときに、この旗はこういう由来だから、ってきちんと伝えていけば、その由来は伝わったわけでしょ? それをやらなかった、ってことじゃないですか。それはどうしてなんです?」

 先生は、ぽかん、としている。

 このひとがこんな表情をするのは珍しい。

 見たことがないとは言わないけれど、一年に何回かしかこんな顔はしない。

 「結生子ちゃん、それ。それよ、それ!」

 大げさに、しかし、なんだかとろんとした感じで、先生は言う。

 「文連についての理由はかんたんよ。旗の由来を伝えなかったのは、それが学校に漏れたら困るから。文芸部の子が、その闘争がまた起こったとき、学校側につく可能性がないとは言えないからね。そうすると、その文芸部の子は、この旗はいま闘争とかいう運動をやろうとしている人たちの旗です、って学校に差し出しちゃうでしょ? そうするとだいじな旗が敵方に渡って、最初からつまずくじゃない? それは避けたかった」

 それは、そうなんだろうなぁ。

 「おんなじように、そのお姫様がほんとはいたのに、それをきちんと伝えなかったとすればよ、結生子ちゃん」

 先生は自分の席で身を乗り出した。ティーカップもクッキーも持っていない。

 「お姫様について、ほんとうのことが伝わると困るひとがいたのよ。しかし、それは、その失脚した相良さがら易矩やすのりって家老じゃないのよ。だって、その家老の罪を明らかにするならば、お姫様はいて、家老はその姫様に対してひどいことをしました、って言ったほうがいいわけだから。そうじゃなくて……」

 その、村に伝わる伝説で、どういう話が多かったかを思い出してみる。

 公式記録「両陵りょうりょう始末しまつ」は、藩主従達よりさとを毒殺した女について詳しいことは何も書いていない。

 だが、自分が子どものころから聞かされてきた話でも、二年前に岡平で聞き取り調査をしたときにも、そのとき調べた『向洋こうよう史話しわ』に載っている話でも、その「玉藻たまもひめ」というお姫様はたいてい藩主家のお姫様ということになっていた。

 行喬ゆきたかという乱心した藩主の娘で、父親が蟄居ちっきょさせられたのでその弟の従達よりさとの養女になっていたか、従達の実の娘か、どちらか、ということだ。

 「姫様が自分の父か養父かにあたる藩主を毒殺しました、または、その悪い家老が姫様にそういう罪をなすりつけて姫様を殺しました。そういうことですね」

 「うん」

と先生があいづちを打つ。結生子が続ける。

 「もし姫様がほんとに親を毒殺していれば、江戸時代の武家のことだから、本来ならば、スキャンダルではすまない大犯罪、引き回しの上、公儀こうぎ公認でなぶり殺しっていう……」

 言って、思わず背筋がぞくっとした。

 引き回して、さらしものにして、そのうえ、深い傷をつけて竹のこぎりをさし込んで引かせて、できるだけ痛がらせて惨めな思いをさせてゆっくりゆっくりと殺す。

 いくら犯罪がひどいと言っても、こんな殺しかたをに認めていた社会って何だろう……。

 かえって、理由さえあればそういう残虐趣味を表に出していいんだ、ということが社会のなかに浸透する。そんな社会だったとしたら?

 またぞくっとしたので、それを考えるのはやめた。

 最初の考えを追う。

 「逆に、家老が姫様に無実の罪を着せたのなら、それを阻止できなかった家臣団全体の連帯責任……どっちに転んでも藩にとって都合のいいことなんかなんにもない」

 「しかも、幕府がその真相がどうだったか注目してるわけよ」

 それで、先生ははっと息をんだ。

 少なくとも呑むふりをした。

 「そうだ。正妻の子でなくて、国許くにもとにいたおめかけかだれかの子だったら、幕府はそのお姫様の存在は知らない。いや、ほんとに知らなかったかどうかは別にして、知らなかったことにできる。幕府も藩も大ごとにしたくなかったとしたら、口裏を合わせることもできる……」

 先生は、ぱっ、と、自分のパスチャライズドミルクのミルクティーを飲み、がしがしがしっとクッキーを食べた。

 結生子よりも品のない食べかただ。

 もうっ!

 結生子にできないぐらい優雅に食べるかと思ったら、ときどきこういうのをやるんだから!

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