第44話 三善結生子(大学院学生)[1]

 だからスキャンして取り込んで、と、思い、いやそんなことを言ったらそれが自分の仕事になる、自分だけならいいけどたぶん瑠里るりさんも巻き込む、と思い、それの堂々めぐりが続く。

 最初は、史料読みのあいまにその堂々めぐりをしていたのだが、そのうち、その堂々どうどうめぐりのあいまに史料に目をやるようになってしまった。

 この『向洋こうよう史話しわ』は、明治の後半に地元の人たちから聞き取った話を話題別に編集して、だいたい時代順に並べてある。でも、それぞれの項目の内部は時代順というわけでもなく、一つの話題のあとに、「そういえば昔こんなことが」と、急に古い時代の話に飛ぶこともある。違う話題に飛ぶこともある。タイトルと内容がぜんぜん合ってないところもある。

 こういう研究で使うときの便利さを考えて編集してあるわけではないので、しかたがない。

 「永遠ようおん」・「火」という文字を拾って読んでいくのだが、活字が小さくて読みづらい。目も疲れてきた。

 永遠寺の記事はいくつもある。

 火災の話も、怪談や因縁いんねん話めいたものも含めていくつか見つけた。火の用心の心得のようなのも何度か出てきた。

 でも、永遠寺の火災なんて話は出て来ない。

 それに、これでは、仮に出てきたとしても事実とは限らなさそうだな、と思う。

 どの星とどの星が重なれば大火になるとか、火災の前にはかならずこんな前兆があり、そのときはどこにどうお参りすればいいとか。そういうのはむしろ民俗学のネタだろう。

 先生はとみると、さっき大机の上から持って行った『岡平おかだいら市史資料編』を脇目もふらず見ている。一定のペースでページをめくっている。ときどき、付箋ふせんをとっては鉛筆で何か書いてったり、何も書かずに貼ったり、貼らなかったりしている。

 途中で、二度、電話がかかってきた。先生は、あの少女のような言いかたを十パーセントぐらい残して、「そんな! 急に言われてもわたしは対応できないから」、「いえ、それはたしかに児童福祉学部の教員だけど、児童も福祉もわからないから」などとくどくど言っていた。

 修士しゅうし課程一年生が知るはずもない大学の用事のようだ。

 あの岡平市の遺跡について続報はない。

 ページを後ろから繰っていくと、開国後の部が終わり、天保てんぽうごろ以後の話が終わり、文化ぶんか文政ぶんせい時代の部が終わり、と、時代が戻って行く。

 開国後や天保のころまでは地元の人たち自身の体験談や思い出話が多い。

 それが、文化文政ごろの話となると、自分の体験ではなくて伝聞や言い伝えが多くなる。

 それはそうだ。

 文政の元号が終わるのがだいたい一八三〇年、この本の聞き書きが行われたのが明治三十年ごろで一八九〇年代も後半だから、文政の最後のころの話としても、もう六十年以上も前のできごとだ。

 それで、文化文政のあたりより前は、それまでと較べてあやしげな話が多くなり、だいたい寛政かんせい期あたりになると、話自体の数が減る。

 では、その前にさかのぼるともっと話が少なくなるかというと、そんなことはない。

 結生子はため息をついた。

 いま読み終わったところの前にさかのぼると、ついに、この『向洋史話』の上巻の後ろのほうと下巻の前半分、上下巻合わせた全体のボリュームの三分の一を占める部分に入る。

 「玉藻たまもひめ騒動 上」、「玉藻姫騒動 中」、「玉藻姫騒動 下」、「玉藻姫騒動 補遺」――その四つの部分を合わせて、一連の事件を扱っている。

 「玉藻姫騒動」――。

 岡平いずみ家の七代めにあたる大炊おおいのかみ行喬ゆきたかから八代め刑部ぎょうぶ従達よりさと、九代めの大炊頭・主馬しゅめ行稚ゆきわかまでのあいだ、一連の事件が藩主家をおそった。

 行喬は乱心して蟄居ちっきょ、従達と行稚は暗殺された。

 これが『向洋史話』のいう「玉藻姫騒動」だ。

 でも、この事件について、『向洋史話』以外の記録に直接間接に残っていることは多くない。

 いま先生が見ているはずの『岡平市史資料編』には「両陵りょうりょう始末しまつ」という文書が載っている。これがその事件についての調査報告で、いわば岡平藩の「公式見解」なのだけれど、とても簡潔な事実経過しか書いていない。いや、「事実」もところどころ飛ばした経過しか書いていない。

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