第40話 星淳蔵(農業)[2]

 そのブルドーザーが踏み抜いたというのは、あの家が牛を飼っていたころの地下倉庫か何かなのだ、と。

 そのなかみは空高く舞い上がった。

 そのなかみとは、いったい何だ?

 わざわざ地下に入れていたということは……。

 さては!

 この降ってきたのは、牛の小便がみついた寝わらとか、牛のふんの乾いたやつとか、そういうものなのか!

 もう何十年も経っているけれど、そういうものなのか?

 うっ、とのどが詰まった。

 牛も世のなかの役に立っているのだからがまんせねば。

 だが、牛の小便の混じったものや牛の糞が空から落ちてくるのまでがまんする必要はない。

 次の雨が降れば、それこそ、地面に溶け込んでいい肥料になってくるだろう。

 だから、次の雨が降るまで家のなかにいよう。それも、できるだけその牛の残したものが入ってこないくらいに、どこの窓からも遠ざかろう。

 淳蔵じゅんぞう氏はそそくさと母屋に上がった。

 だが、もう服にはその牛の小便のわらや牛の糞がついているのだ。

 そんなものがくっついた服で台所なんかに行くわけにいかない。できるだけ服についたものを落とさないようにして、台所に声の届くところまで行き、

希美のぞみさん!」

と声をかける。

 希美さんは返事をしない。もういちど

「希美さん!」

と大声で呼ぶと、希美さんは

「はあい」

と言いながら小走りに出てきた。

 「どうしたんです、お父さん!」

 「いや、いま降ってきたのは牛糞ぎゅうふんで……」と言おうとした。だが、希美さんのほうが先だった。

 「熱中症ですか? 足がつるとか、そういう症状ですか?」

 「ああ、いや、違うんだ……」

 自分を何だと思っている!

 だが、去年、二度も熱中症になった。

 今日も暑い。熱中症の心配は当然だ。希美さんには感謝しなければならない。

 「いや、その……」

 感謝しているからこそ、いま降ってきているのは牛糞だと伝えないといけないのだけれど……。

 「いや、今日は熱中症になるかも知れないから、作業は中止です」

 「まあ!」

 希美さんの顔に安堵あんどの笑みが広がる。

 「しかし、いま外に出て汗をかいたので、風呂に入らせてもらえませんか。それと、着替えを一式」

 「ああ、はい。すぐ用意しますよ。お風呂のかし方は知ってますよね?」

 「ああ。ええ」

 希美さんは奥の部屋まで淳蔵氏の着替えを取りに行ってくれる。

 いい嫁だ。だから……。

 だからこそ、言わねば。

 「希美さん!」

 「はい?」

 畳の部屋を横切って廊下に出る手前で、希美さんは振り向いた。

 「牛糞が降ってきているのは知っていますか?」と言わなければ。

 ああ、いや、いまの若い人たちに「牛糞」がわかるだろうか?

 「ぎゅう……」

 「ああ、お風呂上がったあとの牛乳ですか?」

 希美さんは唇を閉じて、愛嬌あいきょうのある顔で、淳蔵氏の顔を見る。

 「うん。暑い時期で、水分はってもすぐに汗で出てしまいますもんね。はい。牛乳、用意しておきます。冷たすぎるとまたお腹によくないので、ほどよく冷えたくらいにしておきますね!」

 希美さんは行ってしまった。

 言えなかった。

 いつ風呂から上がるかわからない淳蔵氏のために、冷たすぎもしない、でも温まってもいない牛乳を用意すると言ってくれる希美さんに……。

 いい人だから、言わなければいけない。

 でも、いい人だから、言えない。

 しかたなく、淳蔵氏は黙って風呂場へと向かって行った。

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