第39話 星淳蔵(農業)[1]
帽子が
草取りを始めると、今度はあの「スポーツドリンク」をどこに置いたかわからなくなっていた。母屋に戻って、
今日はやめよう、と思い、片付けのために畑に戻ってみると、なんのことはない、畑の隅に転がっていた。
ため息をついて、拾い上げて、
「あちっ……」
日に焼かれたスポーツドリンクの水筒は、「
「あぁあ……」
しゃがむ。畑仕事をやめる理由がなくなったので、続けることにした。
あの「黒い灰」は、ところどころ土のくぼんだところに吹きだまりを作っているぐらいで、もうあまり見えなかった。
ただ、黒い炭のかたまりのようなものは、ところどころに落ちていた。
放射能でないのなら気にすることもない。灰なのだから、埋めておけば肥料にでもなるだろう。
草取りを続ける。でもまったく
あの白い肌の、髪の毛がくるっとカールした、目のぱっちりした、まつ毛の巻き上がった女……。
服はどんな服を着ていただろう。
最初に玄関に来たときに会っているから、見ているはずなのだけど、覚えていない。
ああ。ああ。覚えておくべきだった。
そんな思いに行きかけて、それはいけないと思って草取りに戻る。しかし、少しも進まないうちに、こんどは、あの
西原さんはもともとこの一帯の地主だった。
淳蔵氏が小さかったころ、このあたりで家がかたまっているのは
この家のあたりは、田んぼや畑のまんなかに、ぽつ、ぽつと家があるだけだった。そして、その奥に、
夜など、
たぶん、夜はいまのほうが明るいのだろうけど、夜の窓の明かりってやつは、あの頃のほうがよっぽど明るく感じたな、と、淳蔵氏は思う。
そのまんなかに、ちょっと土地の高くなったところにあのお屋敷があった。
周りを、庭木というより、林に囲まれていた。夜になると、その中でかならず一つぽっと明かりがともる。これが西原さんの家の門灯だった。そして、あとは、何の音もしない。ときには、レコードを聴いている音が遠く響いてくることもあった。あの声の高い張りのある歌声は、カンツォーネというのだろうか。そんな歌がときどき流れていた。
しかし、淳蔵氏がもう少し大きくなったときには、周りにいまと同じような家が増えた。
西原さんの家の裏側では牛を飼っていた。たしかにたいへんな
しかし、やはり苦情が多くなり、西原さんはその牛を売り、牛小屋も売り払った。そして、それと同時に、明治のころにできたらしい家を壊して、建て替えた。
次の当主は医者だった。淳蔵氏はその人を「西原さんのお兄ちゃん」と呼んでいたが、「お兄ちゃん」といっても、十歳は上だった。淳蔵氏が二十歳になったころは、その「お兄ちゃん」があのお屋敷で開業していた。しかし、まもなく、岡平駅近くの
まだ「お兄ちゃん」が元気だったころには「お兄ちゃん」がときどき戻って来ていた。
淳蔵氏が最後にあのお屋敷に入ったのは、その「お兄ちゃん」の奥さんのお葬式でだった。原生林にでも囲まれたような、高い木々の見下ろす下での最後の別れだった。
「お兄ちゃん」自身はその後数年で亡くなったが、そのときにはもうこの屋敷でのお葬式はなく、淳蔵氏はお葬式が終わった後に「お兄ちゃん」の息子たちからのはがきで知らされただけだった。
それ以来、だれもここに帰って来てはいない。
やれやれ。
そして、ひとしきり草取りをして、思いがあの
そういう考えの行きつ戻りつを何度か繰り返したあと、その地下室の正体をぼんやり考えていたときのことだった。
えっ?
突然、思い当たった。
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