第37話 三善結生子(大学院学生)[1]

 さっき電話してきた横川よこかわ博子ひろこが勤めている岡平おかだいらを中心に、結生子ゆきこが生まれ育った海辺の村甲峰こうみね、その南の愛沢あいざわ、そして滑川なめかわまで、昔は岡平藩という一つの藩の領地だった。

 小さい藩ながら、藩主のいずみ家は岡平に城を持つことを許されていた。

 研究室の後輩として泉仁子じんこが入って来たとき、もしかしてこの家系の子孫ではないかと思ってきいてみた。この地域の泉家ならば、何か関係がありそうだと思ったけど、違うようだった。

 残念。

 それで、陥没かんぼつ事故が起こって黒煙が立ち上り、ちょっとした騒ぎになった岡下おかしたという街は、その岡平の「はん」ということになっていた。ここも、岡平藩主泉家の分家が治めていた。

 江戸時代のこの二つの藩についての資料が『岡平市史資料編』に載っている。そこに載っていない文書で先生が自分で集めて来たのが「見崎みさき文書もんじょ加幡かばた村有そんゆう文書とでん瓜久うりくむら新村しんそん文書と葛屋かずらやいま左衛門ざえもん日記とりょう戊辰ぼしん」というものだ。

 そして、直接の当時の史料ではないが、明治になって世の中が安定したころに、篤志家がお金を出してこの地方の伝説や口伝えを集めさせ、それを書き留めたのが『向洋こうよう史話しわ』という分厚い本だ。

 それが机の上に載っているところを見ると、うんざりするほど量が多い。

 しかし、それが、自分の生まれ育った故郷についての、明治より前の史料のすべてだと言われると、どうだろう?

 結生子はやっぱり「これだけ?」と感じる。

 戦国時代以前、この地がどうなっていたか、じつはあまりはっきりしない。

 わからないことだらけなのだ。しかも、史料がないので、「何がわからないか」さえわからない。

 室町時代までの文書でこの地方について書いたものは断片的にしか残っていないし、それも地元の文書ではない。戦国時代には、近国の大きな大名の争いの地となったはずだが、合戦や古戦場の伝承もとくにない。

 そして、江戸時代の初めになって、泉家という大名が突然に現れる。

 この泉家自体がどこから来たのかまるでわからない。

 「上杉うえすぎ和泉いずみのかみ家」の子孫ということになっている。上杉謙信けんしんの属する越後えちごの上杉家ではなく、室町時代の鎌倉で活躍した上杉一族の子孫ということだ。

 しかし、上杉家側の系図には「上杉和泉守家」などというものは現れない。

 泉家最初の三代は、後の史料で必ず名君とたたえられているのだけれど、その時代の史料もとぼしい。

 どうも、世のなかが元禄げんろく時代に入る少し前ぐらいと、岡平の殿様の家系がわった一八世紀後半とに、それまでの記録を整理して編纂へんさんするという名目で、大きい書き換えが行われたらしい。最初の三代の時代について書かれた史料には、中国の歴史書を写して書いたらしい部分もある。

 つまり、江戸時代の中ごろより前のこの岡平・岡下という地域の歴史は、何もわかっていないにほぼ等しい。

 だから、こんど見つかった、ブルドーザーが落ちた穴がほんとうに古墳なのなら、画期的な大発見なのだけれど。

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