第35話 天羽てる美(元スーパー勤務)

 そのひとは黒野くろの倫典とものりという名まえだった。

 小さいころからクロちゃんクロちゃんといって友だち扱いしていた。筋肉質の小太りで、しかも動きが鈍いので、実際以上に怖い印象を与える。声をかけてもすぐ反応せず、のそっと動いて、低い声で

「んー? なんですか?」

などと反応するので、脅しているようなのだ。でも、ほんとうはお人好しで、愛嬌もある。

 ところが海の上では打って変わって敏捷びんしょうだ。

 天候が急変して釣り客が突堤に取り残されたときには、強い風雨をついて船を出し、救助に行ったこともある。

 海が時化しけて船が横倒しになりそうになっても、悠々ゆうゆうとキャビンでたばこをくゆらせながら舵を取っていたという話もある。

 二十歳にもならないうちにお嫁さんを見つけて、さっさと結婚した。いつもしっぽを振ってけんめいに走り回っている白い子犬のようなお嫁さんだった。そしててるはそういうひとが嫌いではなかった。てる美の母もそんな人だったから。

 てる美はため息をついた。

 そのクロちゃんの住んでいた花沢はなざわまで中学生のころのてる美の足で二十分だった。

 坂を途中まで上って、そこから反対側へと下りる道を下る。アスファルト舗装された道で、途中に通りにくいところなどなかった。

 だが、人が通らなくなったその道は荒れていた。

 草が舗装ほそうを突き破って生い茂っていた。そこは、たもとを手で持って草を押しのけて通り抜けた。

 でも、その先で、道の横のコンクリートが崩れて、雨水か地下水が道にあふれていた。

 洋服に靴ならば通り抜けられた。

 でも、浴衣ゆかた草履ぞうりでは、浴衣のすそも草履も足袋たびらして汚してしまう。

 それでもつま先立ちで通り抜けられないか。

 しばらく立ち止まって考えたけれど、やめた。

 そこまでして、だれも住んでいない村に行って、何のいいことがあるのだろう。

 でも。

 それで引き返して、人がすっかりまばらになった村に戻って、やっぱり何かあるのだろうか?

 夫と別居した後でも、レジ打ちを続けていたならば、裾が汚れても足袋が泥にまみれても通っただろうな……。

 しかたがない。いまのてる美は失業者だ。

 うつむき気味に道の分岐点まで戻ったてる美の前を、自転車が二台、走って行った。

 乗っていたのは中学生ぐらいの子だろう。スポーティーな自転車に乗った男の子が先を走り、すぐ後ろを頑丈がんじょうだけど重そうな自転車に乗った女の子がついて行く。男の子は後ろの女の子に気を配りながら坂を下り、女の子は男の子に引き離されないようについて行く。男の子のほうが体も小さく、幼い感じなのに、男の子にはきっちり女の子をエスコートする心構えが見てとれた。

 やるじゃない……。

 何だろう?

 この場違いなさわやかさは。

 どちらも滑川なめかわでは見かけたことのない子だ。

 てる美は笑みを浮かべた。その子たちの行くほうに行ってみようと、てる美は顔を上げて歩き出した。

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